フキノトウ燦燦-3

すまんなと蕗玉三つ四つ大地から

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(「プリマベーラ」部分)
春風に誘われて草が芽吹き、花たちが咲き初める、といえば誰もがボッティチェリの「春」プリマベーラを思い出すだろう。
何年か前にイタリアにツアー旅行した折に、フィレンチェでウフィッツィ美術館に寄った。まずはその絵の大きさに驚いたのだが、正直に言えば教科書を確認するだけの感動だった。私は彼の絵の美女たちの整形されたようなある種生硬な表情にいまひとつうっとりできないのだが、これは中世の名残だと眼をつぶらないといけない。だが絵の謎解きはとても面白い。
この館には同じくらい教科書的に有名な「ヴィーナスの誕生」という絵がある。「ヴィーナス」「春」のいずれにも、「ゼピュロス」という西風の神が大きな役を果たしている。
「春」では画面右の上から青緑色の顔をして頬を脹らめた異様な男が女を捕らえようとしていて、女は驚いて振り向きざまにその男を見上げる、途端にその唇から花が溢れ始めている。この男はゼピュロスという風の神で、女はニンフのクローリスである。そうしてクローリスは左に描かれている花の女神フローラに変身する。
ヴィーナスの誕生」では、ヴィーナスは思考ゼロ的な首長斜頚美人であり、モジリアニの女性を連想するが、それはさておき、画面ではゼピュロスとクローリスが風を起こしてヴィーナスを岸に運んでいて、その風は花を咲かせている。
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(「ヴィーナスの誕生」部分)
いずれも風神が刺激して花を咲かせているのだが、日本ではこういう発想が余りないように思える。日本の風神は、宗達の絵のように「鬼」の姿をして風の袋を肩に背負うイメージが流布している。風が「鬼」であるのは強風の凶暴な力を表したもので、台風などを想起させ、咲かせるというよりはむしろ散らす方に風の力を見ているように思える。
「吹くからに秋の草木のしおるればむべ山風を嵐というらむ」
でもいう植物を消長、減衰させる力である。
日本では、芽吹きや開花をもたらすものは、風ではなくむしろ雨すなわち水ではなかったか。一雨ごとに、という常套句はあるが、一風ごとに、に該当しそうな言葉がすぐには見当たらない。春一番という言葉が最近気象用語に定着しているが、もともとこれは漁師を悩ませた春の強風をあらわす壱岐の漁師言葉だということで、明るい春の到来をいうものではなかった。
光琳の「紅梅白梅図」に風はなく、川に豊かな水が流れている。
 
私にはフキノトウも、風よりは雨に誘われて芽を出すように思える。日本は水の国なのだ。

宮崎駿さんのアニメに、歩く足下から大地に花が咲く映像があったように記憶するが、あれはなんだったのか、いま思い出そうとしているが、思い出せない。)