びるぜんさんた丸や(処女聖マリヤ)―1

蝶を追えば蝶に追われて野辺の道
 
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かくれキリシタンの聖画」より「受胎告知」

「びるぜんさんた丸や」とは一体何かと面食らうが、じつはびるぜんはポルトガル語virgemで処女の意味、すなわち聖母マリヤのことである。隠れキリシタンの口伝の聖書「天地始之事」(てんちはじまりのこと)にそう表現されている。
この口伝聖書は、邪宗の迫害を逃れて、250年にも及ぶ気の遠くなる年月を長崎の寒村で密かに伝えられたものだという。江戸末期に発見されたが、すでに内容的には歪曲化され日本化され、教義も不明確になっていた。カモフラージュの必要もあったろうからそれは当然で仕方がないことだろう。
あまり目にしない本だが、今回初めて読んでみた。その中には美しい部分がたくさんあり驚かされた。その二三を書き留めておきたい。
 
そのひとつが、蝶についてのイメージ脹らむ表現である。
有名な受胎告知の場面であるが、でうす(ゼウス)に遣わされたさんがむりやありかんじょ(大天使ガブリエル)は、丸やの前にひざまづき
「このたび、御主(あるじ)、天下らせたまいて、其元の涼しき清き御体を、御貸しあれかし」といふ。丸やこたへて「・・・ずいぶん御心にまかせ申べし」とぞ、受けあいけり。
そして身を謹んで待っている丸やのところへ、
「其夕暮に、蝶の御装にて、天下せたまいて、びるぜん丸屋の御顔に、移らせたもふ。ころうどのさんた丸や(注)と名付たまいて、御口の中にとび入たまふ。それよりすぐに、御懐胎とならせたもふ。」
 (注)ころうどのさんた丸や→花冠のサンタマリヤ
なお別本(松尾本)には、精霊の蝶が
びるぜん丸屋の、御手にささゑんとすれば、中ゆびにとまり、いただくとすれば、かおにうつ」り、御口に跳び入った、と書かれているようだ。
精霊は蝶となってマリやに訪れ、ひとしきり戯れてその口に入ったのだ。どの正統福音書に、このような田園的な優しくうつくしい表現がみいだせるだろうか。侮ってはならない。
 
掲載写真は「かくれキリシタンの聖画」(小学館30ページから借用。「受胎告知」を画いたもので、生月島舘浦地区のK家に伝わるお掛け絵である。
頭上はデウスで左が天使ガブリエル、右がマリヤでとおもわれる。しかしおかしなことに聖母は胸元に幼子を抱いている。解説では、
「潜伏時代以降、聖書の教義がしだいにうすれ、受胎告知の物語も忘れ去られた段階で、他のお掛け絵に描かれている母子像の影響を受け、描き直しのさいに描き加えられたものと推測される」としている。


ダ・ヴィンチやフラ・アンジェリコの極めて静的で思弁的な絵やグレコのドラマチックな名画など、「受胎告知」を画いたものはだれでも何点かは知っている。それにならされた目で見ると、なんと素朴稚拙で意味不明な絵だろうと思う。しかし泰西名画に春の蝶が飛ぶような命の素直さ優しさが少しでも感じられるだろうか?この絵は、巧拙を超えてある世界をもっていることを感じさせる。
信者たちは窒息した情報の中で微かな記憶をすべて総動員し、身の危険を感じながらこの絵を画いたのであろう。そして命を掛けて何百年も守り続けてきた、その呪縛のようなエネルギーを絵の背後に感じるときに、私は背筋に空恐ろしさが走るのを覚える。

(参考:「かくれキリシタンの聖画」 小学館

    「わたしの『天地始之事』」 谷川健一 『谷川健一著作句集10』 三一書房)