鶏頭の句

鶏頭のバケツのままで売られけり
イメージ 1
(この鶏頭は、花屋のもの。きれい過ぎてイメージが違うね)

朝市で、バケツに無造作に投げ込んだまま鶏頭が売られていた。鶏頭らしい売られ方だ、と思った。句は、子規の
鶏頭の十四五本もありぬべし  を意識している。

この子規の句は、ずいぶん議論になったようだ。虚子はまったく無視したが、一方、山本健吉氏などは絶賛している。

イメージ 2
静岡県立美術館蔵)
この句から私はいつも児島虎次郎の「酒津の庭(睡蓮)」という一枚の油彩を想起する。絵の中央下に矩形の池がありそこに睡蓮の葉が浮いているのが見える。その周辺に葉が赤ゝとして影が黒く背の高い草花が10本程度立っているのだが、それは葉鶏頭のようにみえる。激しい点描に近いタッチで画面は塗りこまれ、花は異様な生き物のように突っ立っている。激しいがそれで居て湿気は少ない透明感がある。
これをみているとこの花はこんなふうに咲くものだ、という気がしてくる。
それが、私の中で鶏頭の十四五本もありぬべし、と底通してくる。
(児島虎次郎は、大原孫三郎に勧めて名画を蒐集し、大原美術館の基礎を作った画家であるという。)

参考に、ずいぶん昔のものになるが、山本健吉氏は「挨拶と滑稽」に次のように書いて鶏頭の句を絶賛している。

俳句は宇宙の万象に対する的確な認識が含まれることを理想としている。鶏頭は「十四五本もありぬべし」といった具合に生えるものなのである。
・・・略・・・
鶏頭の句は、そのあまりに平凡なぶざまな在りようが、そしてその平凡さ・ぶざまさこそそのものの宿命にほかならぬという発見が、作者の深い共鳴を喚起している。ともに作品のレアリテを支えるものは、外界ではなく、外界に触れて発する作者の側の発見の驚異だ。

山本氏はこの句に、なるほど、と思い解説したのだろうが、気持は理解できるが、いささか大袈裟なペダンチックな気がしないでもない。
俳句は「なるほど!」と感じてポン!と膝を打ったり、「なるほどねー?!」としばらくおいて「そういうものだねー」と感心したりする、そんな言葉の遊びである、という程度の理解で私は満足してしまう。学者になれないねえ。