裸像妄想(釧路の幣舞橋にて)

幣舞に女像四人の裸足冷ゆ
(ぬさまいにおんなよにんのすあしひゆ)
 
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(「春」 舟越保武 背後はフィッシャーマンズワーフ)
釧路市は人口17万人を超す道東の中心都市で、幣舞橋は市の観光スポットの一つとなっている。橋は釧路川の河口近くに架かっていて、周辺は護岸に遊歩道がきれいに整備され、MOOと名づけられたフィッシャーマンズワーフをはじめ、釧路センチュリーキャッスルホテルなど洒落た建物が眼に入る美しい地区である。
また漁港でもあり、私が歩いた時はサンマの漁船が河岸に横付けされていて、たむろする漁師たちは東南アジアやロシアっぽい?異国の顔にみえた。左岸には啄木が76日間勤務した釧路新聞社の赤レンガの建物が再建されていて、啄木の立像、そして「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」の歌碑もある。揮毫したのは、彼が入れ込んだ件の耳たぶの小奴だというから驚きだ。
 
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「夏」 佐藤忠良
さて、幣舞橋を有名にしているのは、4人の彫刻家による4体の裸婦彫刻である。私は裸婦彫刻が町を美しくするとは思っていないのだが、さすがに日本を代表する彫刻家の競演となるともの珍しさも後押しして橋をしばらく歩いてみた。とはいってもすでに秋の陽は傾きはじめていて空ばかりが明るく、見上げる彫刻は逆光で克明には見えない。
これらの彫刻は、1977年にこの橋の新設にあわせて作製された。タイトルは「道東の四季」で、「春」の像は舟越保武、「夏」は佐藤忠良、「秋」は柳原善達、「冬」は本郷新と、時代を代表する作家たちの手になる。
 
さて、みていて感じたのだが、彫刻は比較的高い台座に据えられていて、それは私の眼の高さほどである。そのため私の視線は否が応でもその堂々とした裸体を下から覗き上げることになる。舟越さんは例によって薄手のものを纏わせているが、他の3体は当たり前だが、裸である。さすがに「芸術鑑賞だ!」と割り切ったとしても、日中往来のある場所でまじまじと覗き上げているのは、どうも居心地が悪い。どんなものなのだろう。私が気が弱いせいだけでもないと思うのだが。
 
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「秋」 柳原善達
では、見上げる高さがよくないなら低くすればどうか。すなわち裸の女像を町角の地面に置いて、通行人の1人のようにしてしまったらどうなるか。それは「芸術」という非日常、虚構の世界という暗黙の約束事の垣根を壊す恐れがあり、きっと顰蹙を買うだろう。あきらかに「芸術」然としていない場合、たぶん問題が生じる。
ロダンカレーの市民を造ったときに周囲の反対を押して、その群像を地面に置いたと聞いたことがある。英雄を神格化・単なる芸術にさせないためだったと思われる。
ということは、台座の高さが裸女の彫刻を芸術と認めさせる、極めて大きな要素だ、ということにもなりそうだ。
結局のところこの幣舞橋では裸像はやや高く見上げる構造が、妥当なのかもしれない。では高さは何センチならいいのか?
それは日常、ちょっと足を上げる程度では上がれない高さ、階段で言えば3段くらい?は必要なのではないか?それが「芸術」世界と現実を分ける結界になりそうな気がする。
以上、裸婦を見上げたときのまったく根拠のない妄想である。
 
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「冬」 本郷新 背後は釧路センチュリーキャッスルホテル
(もちろん彫刻そのもの美的評価の問題が大前提だし、また美術館などの契約空間においてはこんな高さの話は別で、そこではデルボーの陰毛もクールベの写実画さえも「芸術」にくくられて今日では堂々と展示される。)
 
幣舞橋のたもとには美川憲一の「釧路の夜」の碑があった。そこから彼の声が「女心も知らないで あなたが憎い あなたが憎い」と歌い続けていた。