大塚国際美術館とコピーとベンヤミンのこと

*今日のブログは、あれこれ妄想した個人的なメモの色合いの濃いものであり、読むに耐えなく、かつ時間の無駄になるので、アクセスされた方には申し訳ありませんが、そのままお帰りになることをお薦めします。



大塚国際美術館を訪れてすでに2月ほど経つが、何かモヤモヤしたものが後を引いていて、すっきりしないでいる。私のモヤモヤした気分とは、「しょせんコピーだった」という空疎感、不満足感なのだろうか。しかしその反面他にはない快感があるのは確かなのだ。
 
それを少し我流で考えている。
 
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(いきなりこれ!)

よく知られている美術館だから余り説明する必要はないと思うが、概略だけ。
この館は大塚製薬が鳴門の風光明媚な小高い山に開設したもの。ヨーロッパの名だたる絵画、壁画のコピーが展示されていて、その数は1000点を超す膨大さ、またシステーナ礼拝堂やゴヤの家などの空間をそのまま再現しているなど規模も圧倒的である。

展示作品は、実物作品の写真を陶板に焼き付けたものであり、極めて精緻巧妙。また実物大なので図鑑に慣れた眼には想像以上に大きい。触れるほど接近してゆっくり見られるので、ある種の特権的な気分がわき他の美術館では味わえない臨場感がある。壁画などはその質感もみのがせない。さらにヨーロッパの各地の美術館のものをここ一ヶ所で見ることができて、お得感は充分にある。

過日、ここを訪れて急ぎ足で4時間ほど回ったのだが、それでもまったく時間が足りず、現代まで行きつかずに閉館時刻になってしまった。歩き回るだけで疲れてしまう。
 
では、本物(オリジナル)とコピーの関係は、一体どう考えたら良いのか。コピーばかりの美術館というものはそもそも存在義があるのか?
独りよがりな拙い思いをめぐらしてみると。
 
オリジナルは、その在り処が特定の場所と時間に限定される。それは作者の労働の痕跡をとどめていて、代替が利かない唯一のもので反復がきかない。
オリジナルはあるコミュニティが共同で味わうある種の畏敬と恍惚感を引き起こすものである。即ちこれは詩に通ずる。それは隠された神を出現させるアメノウズメの舞である。
 
コピーはその反対で、その在り処が場所と時を限定されず、何時でもどこでも出没可能で、作者の汗が希薄または皆無で、複数存在しえて、反復が可能である。
それらは特定のコミュニティから切り離され、ある種の価値・神事への連絡路を失い、というより連絡路の意味を初めから持たないものであり、もっぱら消費財として提供され、逆にそれゆえ地域、文化、教養を限定せずにあまねく人びとに享受される。即ちこれは散文に通ずる。
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すべての芸術には上記のオリジナルとコピーのもつ両特性を持ち合わせていて、その間の座標のどこかに位置している。

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(食べすぎです、ウップ!)

 
と、こんなことを考えていたら、ヴァルター・ベンヤミンという人に「複製技術の時代における芸術」という著作があることを知って斜め読みする。
彼の論を整理して提出する能力がないが、言葉をつまみ食いすると、
・    本物は「いま」「ここに」しかないという性格があり、「アウラ」(これはオーラのこと)を持っていて、複製技術が進むとアウラは減少する。
・    芸術作品は最初は魔法の儀式に、次は宗教的儀式に供するためのものであった。やがて芸術に対する態度はその礼拝的価値から展示的価値へアクセントを移行させ、それに伴い芸術の機能は変化した。
・    複製技術は芸術を宗教的、階級的権威から解き放ち、大衆のものとした。
・    そのさい芸術を受け取る知覚は、礼拝的価値の際は、精神の集中と沈潜であるが、展示的価値の際は、とくに映画の際は、散漫な試験官である。
 
ベンヤミンは1892年生まれ、ユダヤ系のドイツ人で1940年に亡命の途上で服毒自殺している。彼は当時新たに出現した映画というメディアについて、展示的価値の最たるものとして論じている。が、随分ネタが古いので、飛ばし読み。また、最終的にファシズム共産主義の政治論になるが、ここも飛ばし読み。)
 
私は、この知覚の変化に興味を覚えるのだが、肝心の「散漫な試験管」佐々木基一訳)は私にはよくわからない。岩波文庫ベンヤミン著「ボードレール」にある同じ論文(同じ論文だが、異なる稿がある)を読むと、知覚の変化は、「無意識の智慧を働かせて、自然から距離をとる」言い換えれば「遊戯」(野村修訳)だといっている。これもよくわからないが、少しはイメージがわく。
 
我流で単純に理解すれば、複製の時代の芸術は宗教や権威から解放され、大衆の遊戯の対象となった、ということだろうか。アウラが減少しても、遊戯性があれば、芸術は十分存在義があると私には思われる。「あそびをせんとやうまれけむ」だから。そう考えれば、複製でなくても芸術には遊びが付随していたのではないか?
 
ベンヤミンの論では、アウラ、礼拝的価値と展示的価値、オリジナルからコピーの時代への知覚の変化などの視点が、私には面白いと思えたが、テレビ、スマホポケモンGOの現代に、ことさら複製芸術時代という捉え方をするには余りにもすべてが複製になってしまっている。
 
ポケモンGOでは目の前の存在、空間がバーチャル空間に取り込まれ精巧に複製(コピー)されている。人々はその仮想空間の中で、仮想の関係を作りあげ楽しんでいる。
極端に言えばすべてがコピーでありうるし、世界のすべてが商品化されうる。アウラが極端に減少している現在は、また逆にハンドメイド、オンリイワンなど脆弱なアウラ、またはアウラの幻想を作りだしてそれを商品化さえしている。人体さえも複製され始めている。
 
そうすると、オリジナルの概念の「唯一」より重要なのは「最初」firstではないか。即ち「二番煎じ」でないこと。また作者の「肉体作業の関与の痕跡」を要素として追加したいと思えてくる。
 
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(祭壇画も祭壇全体を複製 こんな聖画をコピーしたらバチが当たりそう)

大塚国際美術館とは何者?コピー伏魔殿の秘密

さて独りよがりの迷妄はやめて、ベンヤミンの論を借りつつ、コピーの伏魔殿である大塚国際美術館のファンタジーの秘密を探ってみよう。それもまた私の迷妄だが。
 
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現在の多くの美術館は、古代から現在に至る教会や貴族の館などに秘匿された芸術作品を、小市民の手に奪還したものである。
そうしてこの「大塚国際美術館=コピー館」は、一度は奪還したはずの芸術作品を、またもや秘匿してしまった現在の美術館の、保存する作品やそれに伴う美の観念を、徹底的に小市民の手に、さらに奪還したものだ。
 
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したがって、それまで秘匿されたベールを取り払い、近づけなかったものに最接近し、アウラのもつ一回性を徹底的に拒否している。ここにはいかなる権威も宗教も、秘密もない。したがって権威化された美のルールもない。徹底的に市民の前に平等・公開を余儀なくされ、いわばもてあそばれるべきものとなっている。
 
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この「コピー館」をぞろぞろ歩く観客は、喩えれば革命で乗っ取った教会や王宮のなかを、驚きながらため息をつきながら探索する、小市民の群れである。ものめずらしそうに、ワクワクしながらしかもびくびくと。
 
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小市民が「コピー館」に求めて与えられるものは、こうした革命の勝者としての優越感である。そこには秘められた価値はなく、いつでも求めに応じて開陳される知覚の快楽があるのみである。
すなわちそれは遊戯、遊びの快楽である。「コピー館」は大きな遊戯場、ゲーム空間なのである。
ここで味わえる遊びは、肉体のめまいなどではなく、少し知的・感覚的なものであって、いうなれば、恐竜の化石博物館に似ている。学習の場としても有効である。

 
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(下手な考え休むに似たり)


挙句に思うのは、こうした美術館もあってもいいのだろう、ということだ。
コピーに遺されたわずかなアウラを求め、仮想の沈潜をするも良し、知識、知覚の遊びに酔うも良し。こうした恐竜化石のレプリカのようなものでも、人は遠くまで想像の羽を伸ばすことが出来るから。観客はまるで学習に訪れた、小学生のクラスのようにも思えないか?
以上、長ったらしい私の大塚国際美術館の妄想である。

 
それにつけても、西日本には、いわばコピーを売り物にしたテーマパークが多いのではないか。長崎のハウステンボスしまなみ街道にある生口島の耕三寺や今はもうない岡山のチボリ公園など。こうしたコピーの発想は東日本には少ないようだ、などと別の妄想がまた湧いてくる。

*最後まで読まれた方は少ないと思いますが、ありがとうございました。