いなかの教会(飯山復活教会)-2

十字架に何を祈るや汗のまま
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小布施町の新生礼拝堂 : 教会ホームページからお借りしました)

個人の日記なんて、他人には不要だし、あっても困るものだが、亡くなった母の日記が、どうしたわけか故郷を離れて暮らしている私の手元にある。極力減らしたのだろうが、それでも段ボール箱一つ、棄てきれず兄弟の間を行き来して、結果今私の部屋の押入れに入っている。
箱の中にはノートが何冊も詰め込まれていて、ためしに一冊開いてみると、ミミズののたくったような字がびっしりと紙面を埋め尽くしている。とても読めるものではない。
といいつつ、ぱらぱら捲っていると、日々事ごとに自分を反省して神に祈っている敬虔な信者の姿が見えてくる。
 
そんなある箇所に「青い目の星座」という本を友人が貸してくれたと書いてある。アマゾンで探すと「想い出のアン」(青い目の星座)という本が古本で入手できた。小説は児童の高学年のもので、著者は和田登さんという。映画化もされたという。
 
内容は小布施という小さな町にある、結核のための病院、サナトウムを舞台にした戦時中のエピソードであった。
このサナトリウムは、カナダの聖公会が日本の結核患者を救おうと自国で寄付金を集めて、それをもとに建てられたもので、カナダから医師や看護婦が来ていた。
また敷地内に教会が併設されていて、主人公の少年は教会の日本人牧師の息子という設定である。少年は、赴任してきた医師の娘、青い目の少女アンに淡い恋心を抱くなかで、敵対国になったカナダ人医師や教会が白眼視され、迫害を受けるという話である。
多くの外国人は帰国したが、日本に残ることを選んだ人たちもいた。史実かどうかは不明だが、残ったカナダ人らは一斉に強制収用されて軽井沢に押し込められ、監視のもとにおかれた。また強制労働から逃げ出した朝鮮人を医師の家の秘密の部屋に教会にかくまうエピソードもあった。かくまう側にとっても決死の行動であり、当時の緊迫した状況が描かれ、あの田舎町でもこんなことがあったのか、と改めて戦争を身近に感じさせる。
 
私は、母の持っていた聖母マリア像を思い出す。
それは20センチほどの立像で、後年、劣化したのか表面のプラスチックが一部欠け中から石膏がみえていた。そしてもうだいぶ黄ばんでいた。
私の両親は疎開する前に関西の町で暮らしていたが、いつもいろいろ面倒を見ていた朝鮮の人が、いよいよ身の回りに危険が迫ってきたので帰国する、という前夜、人目を避け密かにお別れに訪れて母に手渡していったものだという。
この像は、疎開して奥信濃で亡くなった長女の位牌の脇に、いつも置かれていたことを思い出す。
 
小説に出てくる教会は、現在「新生礼拝堂」という名の聖公会の教会で、そのホームページをみると、

「カナダ聖公会による日本の結核患者救済運動は、スタート博士を派遣し1932年10月「日本聖公会新生療養所」を生みました。当初、療養所内にあった礼拝堂は、1934年6月25日、新生療養所付属礼拝堂として献堂された」と書かれている。

観光案内などでは、
「木造、フランス茅葺、平屋のゴシック様式を基調とし、外壁を人造石洗い出しで仕上げ、壁面に台座・アーチ棚を備えたアーチ窓が設けられています。玄関を入ってすぐにある栗とりんごが描かれたステンドグラスは必見です。」と、いまは観光資源にもなっているようだ。
 
この教会建設は、長野聖救主教会の司祭、J・G・ウォーラーの指導の元で建設・献堂された教会であるという。したがって、飯山復活教会の建設者とおなじである。飯山復活教会は建造が昭和7年(1932年)であるから、予想に反して小布施の新生礼拝堂よりも幾分早い。雪国の田舎教会がサナトリウムの礼拝教会よりも早く建設された背景に、どんな事情があったのか、今のところ私には分らない。
母が、田舎に疎開してきて教会に通いだすのは、終戦以後だろうから、建設から10数年してから、ということになる。