子規を偲ぶ および秋海棠のこと

喩えれば樫の木刀子規偲ぶ
 
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(根岸の子規庵)
9月19日は子規の命日である。
俳句の世界では、例えば西鶴忌、去来忌、蛇笏忌といった具合に著名人(俳人が多い)の命日を季語としていて、俳句歳時記をみるとその数が呆れるほど多い。

しかし、子規のばあいは命日が季語になって然り、と思える。その壮絶だが前向きな明るい生き様、精神が肉体を完全に支配してるような命のあり方そのものが、やはり一つの稀有な存在であったし、したがってその死もまた事件だと思えるからだ。

くわえて彼の柿好きが、9月のこの時期と絶妙に響き合う。
明治35年の秋、子規は(おそらく)この年柿を食べないまま他界する。
 
この日、私も子規を偲んで、せめて最後の明治35年の句をと思い、虚子の「子規句集」を開いた。子規の句は輪郭がハッキリしていて、病床の人とは思えない気力に満ちている。
そのころ彼は、「草花を画く日課や秋に入る」という日々だった。

ある日、人から南岳の百花画巻をみせてもらうと、非常に気に入って何とか譲ってもらおうとするのだが、先方は首を振らない。そこでお願いの手紙に添えて、
「断腸花つれなき文の返事哉」

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(秋海棠 またの名を 断腸花)

結局、この画巻は譲られることはなかったのだが、俳友たちの画策で、一応譲ってもらったと子規には伝えて、彼に手渡された。
子規が狂喜したのは言うまでもない。それを朝夕手から離さない。そしてこの画巻に執着して手に入れたいきさつを、画巻を美女になぞらえて、子規が美女に惚れたというユーモラスな仕立てにして「病牀六尺」に書いている。
 
さて、この句にある断腸花だが、調べると秋海棠の別名だという。
俗間の伝説では、昔一子女があって人を懐(おも)うてその人至らず、涕涙下って地に洒(そそ)ぎ、ついにこの花を生じた。それゆえ、この花は色が嬌(あで)やかで女のごとく、よって断腸花と名づけた。実際に咲いているその花に対せば、淡粧美人のごとく、じつにその艶美を感得せねばおかない的のものである。(「植物知識」(講談社学術文庫
と、絶賛している。
 
この花物語を知ると、子規の句の断腸花が単なる秋海棠の花ではなく、恋に煩悶している美女の姿なのだということがやっと判ってくる。画巻の美女に執着する「病牀六尺」の話に、ぴったりしてくるのであり、しかもこのお色気、ユーモアが、ほとんど肺が蝕まれてしまっている人の作りごとだと思うとただただ感嘆するだけである。