なにごとか遺体哀れや波の花
( 江戸時代の千石船 「白山丸」 全長23m : 佐渡の小木)
ニュースによれば、北朝鮮の木造船は毎年40~80件程度日本の海岸で発見されているが、今年は11月だけで28件、今年全体では12月8日までに78件が発見され、統計作成以後の歴代最多になるだろうとのこと。遺体も今年だけで少なくとも60体以上になるという見方もある。悲惨だ。
数年前のことだが、佐渡の相川に泊まったときに、宿舎の窓から暗い海の彼方に見えた灯を、ホテルの人に
「あれは越後の灯ですか」と聞くと、
「いいえ、あれは船ですね。この海の先は北朝鮮ですよ。」
と言われて驚いたことがある。
佐渡の一の宮である度津(わたつ)神社は航海安全の祈願のために祭られた神であるともいわれる。日本海の対岸の国は、靺鞨(マッカツ)であったり、渤海であったり、女真であったりしたが、案外、北陸の神々の故郷があるのかもしれない。とも感じた。
「遣唐使」という言葉は教科書でも出てくるからみな知っているが、「遣渤海使」というのもあった。渤海という国は698年に建国926年に滅びたが、北朝鮮から満州、ロシアの沿海地方にかけて勢力を張り文化的にも栄えた国だった。
渤海使節が来たのは35回、日本から行ったのは13回、という交流の歴史があった。
渤海からの出航港は現在の北朝鮮北部の清津およびロシア領のポシェトである。船は日本海を乗り越えて主に能登や加賀に着いている。しかし北は能代、秋田から佐渡、西は島根から対馬に行き着いており、如何に航海が難しかったかが知られる。第1回目の使節24人は出羽の国に着いたが当時蝦夷と呼ばれていた住民に16人が殺されるという事件も起こしている。(参考:*1)
いったいどんな船で往来したのか。
当時の遣唐使船が参考になるが、それは「長さ30m、幅8.5~10m、吃水2.5m程度の構造船」だったであろうと、推測されている。*2
したがって渤海使節の船も相応の大きさはあったはずだ。
佐渡の小木の宿根木に、千石船を実物大に復元したものを展示している。はしごが掛かっていて、内部をぐるっと回ってみることができるのだが、その大きさに驚かされる。それでも全長23.75m、最大幅7.24mで、とても遣唐使船に及ばない。
難破船の小ささに、人民の決死の心情が見え隠れして、言いようのないかなしさを感じてしまう。
海の神々はどう思っておられるか。
*2 「船と航海を推定復元する」松木哲 『日本の古代3』