大磯の「高来神社」参拝

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大磯町にある高来神社に詣でたので、記録しておく。
 
大磯は、旧東海道の松並木もよく残されていて、静かな風情のある街だった。同じ湘南といえど、鎌倉葉山あたりの浮ついた観光地の雰囲気はない。かつては鎌倉もこうした落ち着いた風情だったのだろうかと思わせる。町では復旧された旧吉田茂邸も見学することができた。
 
さて、「高来」はタカクと読むが、もともとはコウライ、高麗である。神社のある辺りは大磯町高麗という地名であり、神社の背後にある円錐形の山は高麗山(こまやま)で168m、地元では高麗寺山とも言われかつてこの山腹に上宮があったという。
 
以下、上田正昭神道と東アジアの世界」(徳間書店)を参考に神社の由緒を考えるとする。
 
高麗は、朝鮮北部にあった昔の国である。が、ここでいう高麗は高句麗を意味している。
高句麗は、3世紀初めころ現中国東北部に国を興し平城を都として発展した国で、今の北朝鮮あたりに相当する。668年に唐・新羅に攻められ滅亡した。
当時朝鮮半島は動乱の時代で、新羅が勢力を伸ばし、百済は滅び、日本は白村江で大敗し、恐れた天智天皇は都を大津に移している。大変な時代であった。

国が動乱すると民が逃げ出すのはいつの時代も同じだが、やはりこの時期、大陸から日本に多くの人が逃げて来ている。高句麗人も王族を含め多数渡来していて、日本書紀などにも多くの記述がある。
かれらは、たぶん船を仕立てて日本海を渡り、山陰や北陸に漂着したのだろう。おおくが難破し多くの人が命を落としたに違いない。地中海のシリア難民を想像する。

亡命してきた人たちは各地に住みついたが、「続日本紀」の霊亀2年(716年)5月に、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1799人」を武蔵国(埼玉県)に移し、高麗郡を設置したと記されている。

高麗郡に祀られたのが現在の埼玉県日高市にある、高麗神社である。祭神は高麗若光という祖先であり、高句麗王族の一人ではないかと考えられている。2017年に先の天皇皇后が高麗神社を親拝されているという。

大磯の高来神社の伝承では、高麗若光相模湾の大磯に上陸してこの地を開発し、その後武蔵に移住し、高麗郡の長になったという。上記の高麗人の移住の記事に符合している。
 
日本の各地にコマの音を持つ地名がある。それがすべて高麗だとは思わないが、1300年ほど前の動乱による人々の亡命の痕跡でもあることも一部は間違いないのだろう。彼らは優れた産業・土木などの技術や漢字文化を持ち、やがて日本人となって国土の開発に携わった。しかしそういう歴史を今現地から感じとるのは難しい。地名がわずかにその匂いを感じさせるだけである。
 
高来神社は社務所がなさそうで、御朱印はもらえなかった。後ろの高麗山から下りてきたハイキングのシルバーさんたちがにぎやかにお参りをしていた。
駐車場が分からずに難儀したが、参道をはいり鳥居の右へ4,50mいくと左に入る細い道がある。


・・・ついでに、旧吉田茂邸にて

プリンセスミチコを泣かせ虎が雨
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吉田茂はバラ好きだったという。大きなバラが好みだったらしい。
吉田邸にはバラ園がちょうど盛りだった。写真はプリンセスミチコ
ちなみに「虎が雨」は俳句の季語だが、曽我兄弟の物語の兄十郎の愛人が、
大磯の遊女「虎」で、彼女は十郎の死後生涯その菩提を弔ったといわれている。
「虎が雨」は十郎の命日旧暦5月28日に降る涙雨。新暦では6月30日に当たる。