大磯町にある高来神社に詣でたので、記録しておく。
大磯は、旧東海道の松並木もよく残されていて、静かな風情のある街だった。同じ湘南といえど、鎌倉葉山あたりの浮ついた観光地の雰囲気はない。かつては鎌倉もこうした落ち着いた風情だったのだろうかと思わせる。町では復旧された旧吉田茂邸も見学することができた。
さて、「高来」はタカクと読むが、もともとはコウライ、高麗である。神社のある辺りは大磯町高麗という地名であり、神社の背後にある円錐形の山は高麗山(こまやま)で168m、地元では高麗寺山とも言われかつてこの山腹に上宮があったという。
高麗は、朝鮮北部にあった昔の国である。が、ここでいう高麗は高句麗を意味している。
かれらは、たぶん船を仕立てて日本海を渡り、山陰や北陸に漂着したのだろう。おおくが難破し多くの人が命を落としたに違いない。地中海のシリア難民を想像する。
亡命してきた人たちは各地に住みついたが、「続日本紀」の霊亀2年(716年)5月に、「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野7国の高麗人1799人」を武蔵国(埼玉県)に移し、高麗郡を設置したと記されている。
日本の各地にコマの音を持つ地名がある。それがすべて高麗だとは思わないが、1300年ほど前の動乱による人々の亡命の痕跡でもあることも一部は間違いないのだろう。彼らは優れた産業・土木などの技術や漢字文化を持ち、やがて日本人となって国土の開発に携わった。しかしそういう歴史を今現地から感じとるのは難しい。地名がわずかにその匂いを感じさせるだけである。
駐車場が分からずに難儀したが、参道をはいり鳥居の右へ4,50mいくと左に入る細い道がある。
・・・ついでに、旧吉田茂邸にて
プリンセスミチコを泣かせ虎が雨
吉田茂はバラ好きだったという。大きなバラが好みだったらしい。
吉田邸にはバラ園がちょうど盛りだった。写真はプリンセスミチコ。
ちなみに「虎が雨」は俳句の季語だが、曽我兄弟の物語の兄十郎の愛人が、
大磯の遊女「虎」で、彼女は十郎の死後生涯その菩提を弔ったといわれている。
「虎が雨」は十郎の命日旧暦5月28日に降る涙雨。新暦では6月30日に当たる。