名句に教わるー2 (池田澄子:人類の旬の土偶のおっぱいよ)

おっぱいとあそんでねむる日なたぼこ
 
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縄文のビーナス:お尻は大きいが胸はこんなもの)
 
池田澄子さんにこんな句がある。
人類の旬の土偶のおっぱいよ 
 
土偶のおっぱいというと、まっさきに「縄文のビーナス」が浮かんでくる。長野県の尖石遺跡の国宝。ほぼ完全な形で出土し、豊満なお尻、膨らんだ下腹部、あどけない表情で、誰もひと目で魅了される。
 
だがおっぱいは、ちょこっと粘土をつまんで申し訳程度につけているだけなのだ。
旬というのだから、この程度がよいのかも。
これはオホーツクのビーナスも同じだ。
 
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(モヨロ貝塚出土のビーナス: 鯨の牙製 :海の狩人オホーツク文化人の造形)

土偶でも、大きなおっぱいはある。秋田市から出たものは、その名も「胸のおおきい土偶」である。オーストリアの有名な土偶「ヴィレンドルフのヴィーナス」も胸は極端に大きい。
しかし、日本の土偶のおっぱいは概して小さい。何故なのだろう。教えてほしいものだ。
 
男というものは多かれ少なかれ、皆おっぱいフェチである。それを否定しひた隠しにするところに、男性社会が成立する。ところが図らずもカトリックではおっぱいフェチが堂々と聖母のおっぱいを露出させてしまったことは前に見たとおり。

そこへいくと日本の仏像は中性的でおっぱいへの意識は低い。江戸の春画でも(私はよく知らないのだが)おっぱいそのものへの執着は少ないように思える。おっぱいへの憧れと欲望は、日本では古来漠然としたものだったけれど、明治以降西洋から教えられた感覚なのかもしれない。こうしたコンプレックスは、縄文の男にはなかったのだろう。
 いや、もしかしたら土偶に見られる、おっぱいに対するこの意識の薄弱さは、作り手が女性であったことを意味しているのかもしれない。
いやいや、サルなどは乳房が小さいから、ホモサピエンスの意識として、まだまだおっぱいの大きさへの関心がなかったのかもしれない。

・・・妄想で話がそれたが、この句で、土偶を「人類の旬」という言葉でとらえたセンスは、たいへんなものだ。
縄文のころが旬だとすると、人類はいま、どこに位置しているのか、終わりに近いのだろうか、などと考えさせられる。
でも爛熟期のおっぱいは?・・・これも捨てがたい。