雑草という言葉

来世はエノコログサでもよしとせむ
 
イメージ 1
(オオエノコログサ? イネ科)

昭和天皇が、雑草という言葉を、
「どうもこの名前は少し侮辱的な感じがして好きではない。水田、畑に生え栽培植物の生長を妨げる植物や、道端に雑然と生えている植物のうちにも、花が咲いたり、役に立つものもあり、どうも、そう呼ぶのは面白くない名前と思っております」と話されたという。*1
たしかに農業の支障になる草々でも、例えばタデ科の花の中には、小さいがよく見るとおとぎ話のお姫様のようにきれいなものがあるし、湿田に侵入してくる厄介者のアシも、日本人は屋根ふきから簾から畑の有機質にとそれを生活に活用してきた。言われるとおり、「雑」として一括りにしてしまうのは可哀そうな気もする。
 
雑草という言葉は、農業という経済活動の支障となるときに使われる言葉だろう。日本語としては新参者で、英語のweedの訳語だということをどこかで見たこともある。日本人は草を、経済効率の視点からのみ判断して、それを排斥するという思想がなかったように思える。農業もまた、業ではあるが自然の摂理の中で植物を活かしていくことだったのではないか。
 
ヨーロッパの植物の本をほとんど読んだことはないが、ヘッセの「庭仕事の愉しみ」やカレル・チャペックの「園芸家12か月」は身の近くに積まれている。この本では、雑草や野生の野の花について目を向けている節は見当たらない。もっぱらの関心はやはりバラなどの園芸花なのである。
秋の七草をはじめ万葉の古代から野の花に目を向け、「草木塔」(*2)まで建ててしまう日本人の感性はやはり西洋とは違うものがあるようだ。
 
イメージ 2
(アキノエノコログサ イネ科)

雑草について頭を整理しておくと、京都大学の雑草学を教えている教授、伊藤操子氏の「雑草学総論」では次のように定義しているとのこと。
野草、雑草、栽培植物の間の、生態的境界ははっきりしない。しかし一般的に言うと、野草は人間の攪乱の外側で、雑草はその内側で自然に生育する植物群であり、栽培植物は人間の手助けがなければ繁殖しない植物群である」*3
 
ここでいう人間の攪乱とは、土地を開発したり耕したりすることだろう。それにしても雑草学というものがあることには驚かされる。
 
*1,3とも松中昭一「きらわれものの草の話」岩波ジュニア新書から
*2 山形県置賜地方にみられる、草木に感謝を表す石塔 山頭火の句集にも同名のものがある