人麻呂の柿の木は、渋柿か?

熟れぐあい鵯(ヒヨ)に教わる柿日和
 
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(生らせすぎかな、来年はダメかも)

今年は生り年なのだろう、庭の柿も例年よりたくさん実った。この数日、小鳥が飛来してにぎやかになった。そんな楽しい団欒をヒヨドリがけたたましく恫喝して追い散らしてしまう。
私は、その鵯を追い払う役目で、枝にカンカラを下げて紐を這わせ、いわば鳴子を鳴らして見張っている。
 
カキは俳句には多いが、万葉集ではどうかと思って、中西進の「万葉集事典」や松田修の「萬葉植物新考」で探してみると、驚いたことに、出てこない。万葉集では一首も歌われていないのだった。

しかし柿は古くからある植物のはずで、現に柿本人麻呂という名もあるくらいだ。
ネットで調べると、甘い柿ができたのは、渋柿の突然変異によるもので、鎌倉時代の1214年。川崎市麻生区にある王禅寺で偶然発見された「禅寺丸」が日本初の甘柿といわれている。(Wikipedia参考)
ということは万葉の時代には渋柿しかなかったわけであり、当然、柿本さんの家の庭の柿も渋柿であった。
柿本人麻呂、というわけだ。
柿剝くや台風と同じ左巻き
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(幾分虫にやられているが、手入れをほとんどしないのでまあまあ)

では、渋柿はどうしたのか?干し柿にして食べたと思われるが、そんな記述もない。柿渋で利用した?しかし万葉集には柿渋も登場してこない。
 
これはまた今後の宿題ですね。
ただいつものように勝手に妄想すれば、柿本人麻呂という名前に、柿の朱の華やかさや豊饒さを感じとっていたが、当時はそのようなイメージはなかったのかもしれない。もっと地味なもので、たとえば柿渋の販売などをしていた村の有力者、みたいなイメージなのかもしれない。