子規と絵または石膏像のデッサン-2

大掃除ローマ男にハタキかけ
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(日本の座敷に置かれたアグリッパ。年末の大掃除で、石膏像も叩けば誇りがでる?)
 
 石膏像が教室の棚に並んでいる。
 ミロのビーナス、メジチ、アグリッパ、マルス。いろいろ居るのだが、分かるのはビーナスくらいで、他は名前を聞いても誰だが分からない。西洋の美術学校ならいざ知らず、日本の田舎の高校になぜこんな像が化け物のようにならんでいるのだろう。考えれば不思議な光景だ。
 
 鉛筆の白黒だけで表現するのは、音楽でいえばあたかも弦楽四重奏のようで、侮れない表現力を持ち渋い魅力があるのは、私にも幾分感じられるようになってきた。
 それにしても日本にも仏像や仁王像や浮き彫り彫刻がたくさんある、素材には事欠かないはずだ。なぜ日本や東洋の彫刻の素描をしないのだろう。アフリカもインドもない。
 素人考えだが、これは明治の欧化主義の遺物ではないのだろうか?
 
 一体、石膏像デッサンはどのように日本で始まったのだろうか。
 私は専門的知識も経験もないので、正確な解答が出るわけがないのだが、多分明治の初めだと見当をつけてみてみると、手元の本には、次のような記述が眼に入る。
 
 明治9年、工部美術学校に招聘されたイタリアの画家フォンタネージは、来日に当たり「古今の名画の写真や銅板による複製、石膏彫像、遠近法や解剖学の図譜・・・」を大量に準備、その指導法にも石膏像デッサンがカリキュラムの早い段階に組まれていた。
彼は在日2年の短期間だったが、バルビゾン派とも親交を持つ「豊かな叙情的資質に恵まれた風景画家」で、師弟からは浅井忠が出ている。*1
 
 初めて石膏像を持ち込んだのは、あるいはフォンタネージだったのかも知れない。
 
 ついで、明治20年代はフェノロサ岡倉天心らにより伝統回帰の風潮が高まったようだが、黒田清輝が9年間の西洋留学から帰国して、洋画界は大きく動く。まず彼は、洋画研究所「天真道場」を設置し
「稽古は塑像臨写 活人臨写に限ること」
と定めている。「塑像臨写」とは石膏像のデッサンのことだ。さらに明治29年東京美術学校に洋画科が新設されその責任者となったおり、

「この洋画科は都合四年の学期で第1年は石膏物の写生第2年は人物すなわち裸体等の写生この2年は木炭で第3年に至り油絵を習わせ第4年を以て卒業試験に充てる・・」*2 と語っているという。石膏デッサンを1年間やらせたことが分かる。これはまた当時の西洋の美術教育カリキュラムに類似したものだろうと推測できる。
 
 大方の予想通り、石膏デッサンは多分黒田清輝以来100年以上続いているのかもしれない。そしてそれがまた美大の入試にもなり、これに対応して全国の高校でも西洋の石膏像を買い集め、黒田張りの石膏写生を営々と行ってきた、という訳のようだ。(効果的な方法なのかどうか、私にはわかる由もない)
 
 石膏像のデッサンについては、私にはこのくらいの理解でいいにしておく。
 しかし、問題はこれからだ。
 この石膏デッサンのさらに奥に、私が感じた非日本的な何かがあるはずだ。それはまた、子規の理解とどうつながっているのか。これは次回来年にしよう。

訪問してくださって、ありがとうございます。一年間ありがとうございました。

*1 この辺りは 高階秀爾著「19.20世紀の美術」東と西の出会い(岩波書店)による。
*2  高階秀爾 「日本近代美術史論」(講談社文庫) の黒田清輝の章から