「ゴッホの手紙」を少しめくってみた

ヒマワリを生命の花とや描きけむ

 

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(手前の二階家がゴッホがアルルで住んだ家、外が黄色に塗られていた。ゴッホは「黄色い家」に描く。これはその素描。(「ファン・ゴッホの手紙」より)

ゴッホの手紙」は古く岩波文庫からでていたが、新たな訳も出ているというので、調べるとみすず書房から「ファン・ゴッホの手紙」(二見史郎編訳 圀府寺司訳)が2001年に発行されていた。

灯火親しんでみようかと、図書館からこの本を借りたが、400ページほどもあり2段に小さい字がびっしり。とても借りて全編を読むのは無理で、とりあえず1888年ころのアルル在住期の手紙だけ目を通した。返却するので残りはまた後日になりそうだ。

 

読んでみて改めて、手紙の饒舌さに驚かされる。

これは手紙ではなくて文学だ、そんな気持ちにさせられた。アルルの自然の明るさ、光、そして描く絵の色の説明、色に籠めた心情、お金の不足、テオへの心遣い、ゴーギャンを待ちわびる恋人のような激しい思い、彼との生活への希望、流行りの小説、諸画家に対する感想。心情がストレートに出ていて、ゴッホ好きにはたまらない中身だろう。ゴーギャンからの手紙も含まれている。

この時季は有名な跳ね橋、ひまわり、郵便夫などを精力的に描いた時代だ。

浮世絵(クレポン)のことも、しばしば言及されていて美術史家などには不可欠な資料に違いない。北斎が素晴らしいと語ったあと、次のような文が出てくるが、これはもう単に絵の表現方法などと言う技術面を通り越した、哲学であるとさえ思える。まだ日本に対する知識などはあまりなかっただろうが、こうした汎神論的なとらえ方を北斎から感じ取るのは鋭いと思わざるを得ない。

返却するので備忘として、とりあえず書きとめておく。

 

「日本の芸術を研究すると、紛れもなく賢明で、達観していて、知性の優れた人物に出会う。彼は何をして時を過ごすのか。地球と月の距離を研究してるのか。ちがう。ビスマルクの政策を研究しているのか。違う。彼が研究するのはたった一茎の草だ。しかし、この一茎の草がやがては彼にありとあらゆる植物を、ついで四季を、風景の大きな景観を、さいごに動物、そして人間像を素描させることとなる。彼はそのようにして人生を過ごすが、すべてを描くには人生はあまりに短い。そう、これこそーーかくも単純で、あたかも己れ自身が花であるかのごとく自然のなかに生きるこれらの日本人がわれわれに教えてくれることこそもうほとんど新しい宗教ではあるまいか。もっと大いに陽気になり、もっと幸福になり、因襲の世界でのわれわれの教育や仕事に逆らって自分たちを自然へと立ち返らせることをせずに、日本の芸術を研究することはできないように思われる。」

ゴッホの手紙1888年9月24日 テオへの手紙 から 293p

 

この手紙の1月後にゴーギャンがアルルに来て同居、12月24日には、例の耳切事件で共同生活は破綻を迎え、ゴッホは精神病院に入れられて、翌年サン・レミの病院に転院するところで、アルルの章は終わりになっている。

35,6歳の感受性の鋭すぎる青年が貧しい中で弟の助けだけで生活し、憑かれたように絵を描いている。なんとかもっと平凡になれないのか、当たり前に穏やかに暮らせないのかと凡人は思ってしまうほどその心情を思えば切ない。

ゴッホの星に対する深い思いも常識人以上のものがありそうで、これも興味を引く事柄だ。ミレーの「星の夜」という絵からの影響なども知りたいものだ。銀河鉄道宮沢賢治をしっていたら、ゴッホはどうしたろう、などとありえない思いが頭をよぎる。

 

因みに、黒田清輝がフランスに留学したのは1884年、絵を始めたのがちょうどこの1887年のことだという。黒田はゴッホをうわさ話ていどには耳にしたことがあるのだろうか?