夏草や一国一城山の中
(六段壁 この上が本丸になる)
ふもとの資料館に車を置いて、急な石畳の坂道を登ること約30分。息が切れ始めたころ追手門跡や櫓の跡などの石垣が徐々に見えてきて、標高700m余の山頂(本丸)下についたら、高々とした石垣が目の前に現れた。これこそが六段壁と名付けられた石垣で、思わずため息が漏れてしまった。これを見れただけでも遠くから来た甲斐があるというものだ。
友人は「狩りだされて作業した農民は大変だったろう、かわいそうに」を連発する。
確かに心配させるほどの石の量なのである。しかも石垣の勾配が90度以上かと思えるほど急で、手作業の技術の高さに驚かされる。
本丸からは遠く恵那山を望み、遠くからホトトギスの声が聞こえていた。涼風にしばらく汗を乾かす。
ほととぎす恵那山嶺の蒼さかな
そして明治6年の廃城令で取り壊しとなったという。もったいなかった。
だが維新の当時、それをもったいないと考えた日本人が驚くほど少なかった、もしくはそういう声を発することができない風潮だったのだろうか。廃仏毀釈と同じように、日本人は自ら誇った高尚な理念や美学を、意外にあっさりと捨ててしまっている。それは本当に血肉になっていたのかと疑わせるほどだ。結果、五重塔も仏像もお城も竈の薪になってしまった。この現象は戦後のアメリカナイズにも似ている気がする。
ここにもし城郭が残っていたら、と歴史のifを思わざるを得ない。
初期の領主は遠山氏を名乗っているという。遠山氏といえば何年か前にみにいった南信州遠山郷の霜月まつりが思い出される。クライマックスは仮面だった。表情のない仮面がぞろぞろと湯立ての窯を回り歩く様は不気味である。この仮面は信濃遠山郷の領主の遠山氏なのだという。農民が遠山氏を一揆で殺害した事件があり、その祟りを封じる祭だと解説されていた。岩村から山一つの三遠南信地域には共通の長い歴史があったことを思わせる。
たまたま手元にある「熊谷家伝記」*1は、現在の天龍村を拠点に地域開発をした郷士の熊谷氏が、歴代書き残したという稀書である。これを読むと先人たちが結束して開拓し仲間を増やし、協力して浪人などの侵入者を撃退し、南北朝時代の宗良親王を支えたり、武田や織田、徳川とは上手に立ち回るさまがいろいろ記されている。岩村城から山を越えて使者が来ることも書かれている。今でこそ厳しい山間の地であるが、意外に歴史の重要な舞台だったことにも改めて目を見開かされる。
(国の重要建造物群保存地区に指定されている街並み 風情がある)
ふもとの岩村の街もけっこうおもしろい。
明知鉄道岩村駅から城に向かってのびる道路の両側に、江戸時代を思わせる商家が立ち並んでいて保存状態もよく、国の重要建造物群保存地区に指定されている。豪商の家屋はお城や館の材を使ったものもあるという。レトロな薬屋や時計屋もあるし、驚いたことに古い製法のカステラ屋さんが3軒もある。私もついついカステラを買ってしまった。素朴な味である。
さらに驚くのは、「言志四録」で有名な幕末の儒学者佐藤一斎の生誕地ということで、彼の有り難い「お言葉」が各戸に掲示されていること。これにはお説教を聞く思いでいささか辟易したが・・・。併せて下田歌子の生誕地でもあり、ネタには事欠かない町であった。
観光ボランティアさんに説明を聞いたが、言葉の端はしに岩村への誇りと愛着がにじみ出ていた。
*1 「熊谷家伝記」(現代口語訳 信濃古典読み物叢書)
信州大学教育学部附属長野中学校編 信濃教育会出版部発行