白蓮も悟りて散るやしどけなく
近くの沼に蓮がたくさん咲いている。
早朝に見に行こうと考えていたら、今日ももう10時を回ってしまった。気温もどんどん上がり30度に近い。ハスの花見は朝早くというのが相場であり、午後になると花は閉じ、数日開閉を繰り返して散ってしまうようだ。
でも、出かけてみた。
花はたくさん咲いていた。しかし陽射しは容赦なく、葉の上の露など望むべくもなくカラカラ、花びらもほとんどが伸び切って風にべろべろしている。今年は高温のため花のつきが悪いという噂を聞いているが、私には分からない。
やっぱりこんな時間ではもう遅すぎたな、と思いつつ2,3の花に焦点を当ててシャッターを切った。
例年なら大勢の親子連れが沼の縁に蓮見に集まっている光景が見られるのだが、この暑さ。花見は私一人という閑散状態である。炎昼に俳句をひねる気にもならず、汗をぬぐいつつそそくさと退散。
蓮見という風流も命がけな時代となった。一昔前には、暑さの中にも穏やかな風があり、晩夏らしい季節の移ろいを感じることができたのだが・・・。俳句の季語も通用しなくなりそうだ。
帰宅して子規の蓮の句をデータで拾うと、100句くらいはありそうだ。だが全体に案外平凡な句が多い気がする。拾い書きすると、
涼しさや蛙も蓮にゆられつゝ(明治25年)
行水をすてる小池や蓮の花(26年)
朝風やぱくりぱくりと蓮開く(29年) これらの句は一茶の面影が感じられる。
病僧を扶けまゐらす蓮見哉(31年)
これは自分のことだろうか。子規の頭は僧形だった。
剪らんとす白蓮に手の届かざる(33年)
子規が自分の後生について仏教的に救いを求めた句とは思わない。そういうものを信じなかった人だったから。もう寝たきりの頃だから、よく歩いた不忍池でも思いだしての句だろうか。
昼中の堂静かなり蓮の花(27年) こうした涼しい夏が、なくなってしまった。
一茶の蓮の句については、以前書いたことがあった。そこでも一茶節がさく裂していた。(参考:
zukunashitosan0420.hatenablog.com