子規の食べた柿は?

山の辺や御陵平べて柿の畑 (奈良山辺の道を歩いて)
(やまのべやみささぎなべてかきのはた)

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柿の畑をぬう山の辺の道(柿は刀根早生柿の木)

子規の柿好きは余りにも有名である。自分を「柿喰ひの俳句好みしと伝ふべし」と詠んでいる。
では、どんな柿を食べたのか。私の手元の乏しい本で調べてみた。

「くだもの」という随筆には、柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺の元になったと思われる出来事が書かれている。子規は明治28年に奈良に寄ったおりに宿で柿が食べたいので沢山もってこいというと、一尺五寸もの大丼鉢に山盛り一杯にもってきてさすがに驚くのだが、柿を剥いてくれる下女が美人なので、子規は鼻の下を伸ばしてうっとりと食べている。とそのときに鐘が鳴った。下女に尋ねると東大寺の大釣鐘が初夜をうったのだという。東大寺は宿のすぐちかくにあった、という記事がある。

この有名な句には「法隆寺茶店に憩いて」という前書きがあるのだが、法隆寺ではなく実は東大寺の鐘ではなかったか、とも言われるゆえんである。
子規は俳句における奈良と柿との取り合わせを、従来にない新しい発見だと喜んでいて、それがこの句の一番の眼目なのかもしれない。
さて、このとき子規が食べたのが、御所柿である。
 
また、知人の愚庵から柿が送られてくる。これは京都の「釣鐘」という品種だった。子規はとても喜んで食べ、皮を啜りヘタのところまで味わいつくす。そうして、礼状に認める。
つり鐘の蔕(へた)のところが渋かりき
 
あるとき和歌の門下生が土産に持ってきた柿をたべ、すぐ嬉しくて手紙を書いている。
「御帰り後御たまものを運び来たりみせ候ところもはや我慢の緒がきれとうとう一つねだり申し候。これは当地にて蜂屋申し候やらん、わが郷里にては祇園申し候。およそ天下に柿多しといえどもこの柿にますはこれなく候ところ、・・・(略)・・・郷を出でて二十年はじめて風味に接し申し候。・・・」(「柿二つ」虚子 第十の二)
まるで子供のようだ。これは、蜂屋という品種。
 
明治34年の秋、「きざ柿の御礼に 臍斎へ」の前書きについで
柿くふも今年ばかりと思ひけり 
 
これは、「きざ柿」という柿の品種だろうか。また子規は明治35年の9月17日に亡くなっているから、この句のとおり、34年が最後の柿だったのだろうか。35年に食べたのかどうかまでは私は調べていない。
 
碧梧桐が子規の妹、律さんにインターヴューした記事が、「子規を語る」(岩波文庫)にあり、これは昭和8年の同人誌記載のものである。ここで柿のこともちょっと触れている。
 
碧)升さん(子規)は柿がお好きでしたが、あの頃、もう樽柿が出るけれなと、大変楽しみにしていられた。樽柿なんて柿は、今でも中以下のものです。御所、富有、次郎などいろいろいい柿が沢山あります。それほど好きな柿でも、いいものを食べる機会がなかった・・・それを残念に思います。
(律)エエ食べ物の小言は余り言わない方でした。(略)・・・今なら、もっとおいしいものを食べさせることができたでしょう。・・・(略)
 
また碧梧桐はこうも書いている。
奈良の御所柿、岐阜のふゆ柿、そういう高級品でないと、などという贅沢は言わなかった。言わなかったのではなくまだ知らなかったのだ。東京で一番うまい、安物の樽柿で満足していたのだ。
柿ばかりではない、食べ物の贅沢ということを知らない、書生気分で終始したのだ。食べものの贅沢を知るまで生きてもいなかったし、懐ろも乏しかったのだ。(「のぼさんと食べもの」河東碧梧桐
 
食べ物には関心が異常に高かった子規であるが、うまいものを食うお金がなかった。子規は門弟の虚子や碧梧桐よりもずっと貧しい生活をしている。けれどそれを恥ずかしいとか苦にしているところはない。樽柿でもかまわないのである。子規は何をおいても俳句、和歌、文学の革新が彼の野心であり、それが生きている意味であった。
野心家で負けず嫌いで、勉強家でお節介で、貧しくて、しかも底抜けに楽天的なこの若者をみていると、やるせないような親しみを感じてしまうのは私だけではなさそうだ。