船上げ木遣りと童謡(文化祭の歌で思ったことなど)

(静岡 用宗漁港)

先日、地区の生涯学習センター(公民館)で文化祭が催され、私も参加して下手な民謡を唄った。私が唄ったのは、「静岡船上げ唄」(船上げ木遣り唄)というタイトルがつけられたもので、大声で音頭をとる木遣りである。お囃子は櫓をこぐ雰囲気である。備忘のために一番だけ記す。

♪ ホーラーエーエー 木遣りしゃ 二部でも ヤーアーエー

  (ソラ ヤットコセー ヨイヤラナー) 

 ホーラーエー 受け声頼むぞお ハ、ヨーイトナー

  (ソラ ハイララ ハイララ ヨイヨイ ヨーイトコ ヨーイトコナー)

 

調べてみると伊豆の伊東市で採譜された「船上げ唄」が資料(注1)にあり、それは私の唄ったものとほとんど同じであった。「船を櫓でこぐ時の唄で、音頭出しに合わせて、こぎ手が囃子詞をいれた。」との解説がある。さらにネットで類似の唄を探してみると、小田原城近くの松原神社の例祭の漁民たちによって歌われる漁民木遣りに酷似している。網を引き揚げる時の唄で珍しいもの、とも紹介されている。(注2)もともとは小田原のものだったのかもしれない、という思いが頭をかすめる。

師匠が言われるは、静岡でこの唄を唄う人は数えるほどしかいない、とのこと。静岡ではほとんど忘れられてしまった唄だけに、なくならぬよう、折に触れて唄っていきたい。

 

蘊蓄はともかく、舞台では意気込んで声を張り上げてみたものの、途中で歌詞がでてこなくて、ムニャムニャッ。最近、情けなくも物忘れが激しい。

 

当日、コーラスグループもたくさん歌を披露してくれたが、聞いていて、おやっと思った。

一つは、

♪ 「燈火(ともしび)ちかく 衣縫ふ(きぬぬう)母は 春の遊びの楽しさ語る」

で始まる「冬の夜」という唱歌。この中に、

「縄なふ父は 過ぎしいくさの手柄を語る」そして

「居並ぶ子供は ねむさを忘れて 耳を傾け こぶしを握る」

 

 これを聞いて、ああ父は参戦して戦い、それが誇りだったのだ、と改めて認識した。この歌は、1912年(明治45年)の「尋常小学唱歌」第三学年用に掲載された文部省唱歌で作詞・作曲者は不明であるとのこと。そうすると「戦の手柄」とは、日清戦争(1894~5年)、日露戦争(1904~5年)のいずれかのことになる。日本はよくもこの二つの戦争に勝ったものだ。戦争は殺し合いだが、現在と比べるとこの頃はまだまだヒューマンスケールで、言い方は悪いが健全な感じがする。個人が手柄を感じた時代だったのだ。

 

もう一つは、

 しずかなしずかな 里の秋  お背戸に 木の実の落ちる夜は 

で始まる、「里の秋」。作詞が斎藤信夫、作曲が海沼實だが、元々の詩は昭和16年に「星月夜」として4番まで書かれたものだったとのこと。その3番と4番は、

♪ 3番 きれいなきれいな 椰子の島  しっかり守って くださいと

    ああ とうさんの ご武運を  今夜もひとりで 祈ります

 4番 大きく大きく なったなら  兵隊さんだよ うれしいな

    ねえ かあさんよ 僕だって  かならずお国を まもります

 

この歌詞が次のように手直しされて、兵の帰還の歌となり戦後の人々の心をつかんだのだという。
3番 さよならさよなら 椰子の島  お船に揺られて 帰られる

    ああとうさんよ 御無事でと  今夜も かあさんと 祈ります

 

童謡、唱歌のうらに戦争があったことを教えてくれる。雑多な文になったが、上に書いたことは、私が知らなかっただけなのかもしれない。

いまは毎日テレビでガザ、ウクライナ、そしてミャンマーの戦争の映像が大写しされる。童謡はとても生まれてこない。現在の子供たちは、これを見ながら一体どういう人間に成長するのだろう。

 

(注1)「静岡県こころのうた」 静岡新聞社刊 静岡県教育委員会編・著 

(注2)http://jinkoenig.o.oo7.jp/Source/matsubara/KiyariSong.htm