円空仏を高山の千光寺に訪ねた。千光寺は円空ゆかりの寺である。
入館料500円を払って寺宝館に入ると、写真も駄目だとのこと。岐阜羽島の中観音堂とはえらい違いだと思いながら、それでもお目当ての「両面宿儺」「不動明王、金剛童子、善財童子」をガラス越しだがゆっくりと拝見した。これらは上野の国立博物館で数年前に並んでみたので、今回は二度目となるが、記憶よりもずっと小さく感じられた。また「近世畸人伝」でいう立木に刻んだ朽ちかけた仁王像、円空の木っ端書きなども展示されていて、資料的な価値も高いようだ。だが、どうしても展示館の仏像は愛着が届きにくい。
「両面宿儺」については、またメモしたいと思っているが、今回はちいさい賓頭盧像(おびんずるさん)が気にかかったので、思うところを。
おびんずるさんは、なで仏さんといわれていつも人に撫でられている。だからつるつるで目鼻も磨耗しているものも多く、千光寺のおびんずるさんも、例に漏れず手垢で黒光りしている。
円空の仏さんは、木喰と比較すれば、男性的・父親的で直截的で垂直的である。その鉈の切りつけた痕を見ていると、私はマタイ伝の次の言葉を思い出す。
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むために来たのである。」
鉈はイエスの言葉のつるぎのごとく、激しく鋭い戦いの精神を刻み込む。
だから彼の仏は、尊崇の対象であっても撫で回すような女性的な皮膚感覚での愛着の対象にはなりにくい。中観音堂では堂守さんから、「子供たちが引きずったり乗ったりして遊び相手、おもちゃにしていた」とも伺ったが、大人は多分そうした行為はしなかっただろう。ところが、このおびんずるさんは手垢で光っていた。私はそれに驚いた。貧しい高山の人々がささやかな願をかけながらこの像に何万回となく触れたのだろう。見るものの心を思わず柔和にしてしまう丸い頭と笑みを湛えたお顔。このおびんずる像は、円空的な果断な激しいものが抑えられているだけに、人々は気安くお参りができたのだろうか、円空仏としては珍しい扱いを受けてきたのではないか、詳しくは知らない私の頭にそんな思いがよぎる。もちろん円空仏の、一見厳しいお顔の仏さんでも、その目や口元は微かな微笑みがある。それこそが貧しい中で人々が大切に守り伝えてきた大きな魅力であることは、言うまでもないのだが。
みていると柏崎十王堂の木喰さんのおびんずるさんを思い出した。木喰さんのおびんずるは、見るものをそのまま肯定し、腹の底からジワッと笑わせてしまう力があった。
キリスト教でも、まさに十字架に磔の処刑の像のとおり、峻厳なものを要求している一方、マリア崇拝の慈母的救済観が根強くひろがっている。円空と木喰をこの対比で捉えるわけではないが、ふと、そんな思いに捉えられた。