駿河の七観音にでかける-1 霊山寺(大内観音)

先日、初詣を兼ねてウォーキングで清水区大内の「霊山寺」を訪れた。大内観音とよばれて親しまれている。

霊山寺は静岡と清水の中ほどに位置し、大内山304mの中腹にある。参道は急峻で一歩一歩古い自然石の山道を登ること10~15分、ようやく見事な仁王門が見えてくる。そこから鐘楼、本堂はすぐ間近である。狭い険しい山肌に切り開かれた伽藍は、山岳仏教とか修験道などの雰囲気を感じさせる。かつてはもっと堂宇があったらしい。しかし後に書くが見晴らしはすばらしい。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200118074845j:plain(国重文の仁王門)

この寺は高野山真言宗で、奈良時代天平勝宝元年(749)に行基により創建されたと伝えられる古刹で、特にその仁王門は室町時代(1516年)の建造になり国の重要文化財に指定されている。カヤ葺きの屋根が長く突き出たおしゃれな姿をしていて、それを支える木組みは精緻である。2013年にカヤを葺き替えて佇まいも美しい。500年の歳月を経て今なおその形をとどめていること、田舎の庶民がそれを守ってきたこと、そしてその建築の美しさは、やはり心に訴えてくるものがある。

現在は無住で、静岡の音羽山清水寺が管理をされているようだ。

 

本堂は吹きっさらしの外陣となっていて、お賓頭盧さんがいるだけ。格子戸の奥に内陣があるが覗いてもよく見えない。

ハイクの人が休憩していてくつろいだ陽射しが当たっている。よく見ると野鳥が飛来しては餌をついばんでいく。ヒマワリの種だ。そのうちに女性が掌に餌を置いてジッとしていると、驚いたことにその手に乗ってくるではないか。ヤマガラだという。なんとも自然たっぷりな境内風景。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200118074943j:plain(本堂)

背後の大内山304mは、山頂の一本松が舟からの目当てにされた山で、それだけに見晴らしは非常にいい。静岡の平野が一面に、そして日本平307mが平たく広がって見え、眼を転じれば立ち並ぶ清水港のガントリークレーン群、その向こうの青い駿河湾のかなたは伊豆半島の山々である。ここには何度か登っているが、元旦の日の出を見に真夜中に登って、大勢の人と万歳を叫んだこともあった。

 

さて、

この寺は、駿河七観音の一つだという。

七観音とは、その昔、行基天皇の病気治癒のため、夢にお告げのあった安倍の奥のクスノキの大木を伐って七体の観音像を刻み、駿府の周辺に安置したと伝えられているもので、昔からそれを駿河(または安倍)の七観音と称し崇められていた。

 

f:id:zukunashitosan0420:20200118075104j:plain(修理なった千手観音)

行基(668~749)は偉大な宗教家だったので、その名にあやかった伝説だろうが、現存するこの霊山寺の千手観音は平安時代の造作とされていて、おそらくその時代から寺があったのは事実らしい。

霊山寺の千手観音は秘仏で普段は見ることができないが、平成28年3月発行の「霊山寺文化財調査報告書」が図書館にあり、その書から垣間見ることはできる。発行者は地元の檀家衆である。

報告書によれば、千手観音は榧(かや)材。伝説でいうクスノキではないようだ。台座を含めての総高は104.5センチという立派なもの。さらに二十八部衆像もそろっていて、内陣は豪勢である。

3月に祭りがあるらしく、内陣がうかがえるかもしれないので、行ってみたい。(2020.03.01に内陣の御開帳があり見せてもらいました。本尊は、原則33年に一度とのことでした)

 

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(内陣の一部:2020.03.01撮影)

上述の「霊山寺文化財調査報告書」は国の補助を受けて実施した修理を克明に期していて、実に立派な本だ。檀家は30数軒らしく、寺を維持してきた苦労は並々ならぬものがあっただろう。

以前訪ねた函南町にあるほとけの里はやはり地元の人々がお堂を維持して保存してきたものだった。この観音堂もまた公ではなく地元檀家が500年以上も連綿と守り伝えてきたことを思うと、庶民の信仰心とは?時間とは?などという問いが頭を渦巻き説明しがたい感慨に襲われる。

 

せっかくいただいた感動なので、今年は七観音を順次参拝してみよう。この記事がその第1回になる予定?だ。

 

(仏像の写真は「霊山寺文化財調査報告書」のコピーです)

どんど焼きの炎に

焼け残りダルマの眼にらむどんど焼き

 

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どんど焼きが近くの野原で11日に行われた。

地元の自治会主催で10年ほど前から行われ、昨今は人出もなかなかなイベントに成長した。私は今年度、町内会の役員が回ってきたので、会場整理係で半日おつきあいとなった。

 

予め地域から集めた飾り物が山と積まれている。子どもは飛び回り、急いで達磨をもってきて投げ上げる人、足の悪いおばあさんは近くまで来れずに人に頼んでいるとか、なかなかにぎやかなのである。

町内の偉い方々がご挨拶の後、なにやら山伏のような衣装の道士がほら貝を吹き鳴らし、呪文を唱え始めた。聞くと、近くの麻機不動山智徳院の方々らしい。真言宗醍醐派の、いわゆる山伏(修験道)のお寺で、私も祭りのときに境内で火渡りをさせてもらったことがある。

どんど焼きは一種の火祭りなのだろうから、密教護摩を焚くことに通ずるものがあるのかもしれない。

信州大学教授の笹本正治氏は

「火祭りの目的は、神迎え・神送り、先祖の送迎、豊作祈願、清め祓い、再生力の付与、験力の誇示など、様々な要素が重なり合っています。また火祭りには、・・・修験と密接な関係を持つものが多いのです。これは修験者が柴燈護摩や火渡りなど、火を自在にあやつる呪者としての一面をもつためでした。」という。*1

どんど焼きもこの例外ではないのだろう。 火は人を興奮させ、ある種の非日常にいざなう。そうした精神状態の中で、神や超自然の威力といっとき交流し願いを受け入れてもらえたのだろう。

 

郷里の奥信濃では、1月15日は野沢温泉道祖神火祭りが行われる。これは日本三大火祭りの一つといわれもする大掛かりなもので、雪の中で激しい火のつけあい合戦を繰り広げる。私はこの近くの出だが、そこにも小規模ながらやはり火祭りがあり、確かドウロクジンと言っていた記憶がある。

野沢温泉は私の隣村だが、実は故郷を離れて長いので詳しくは知らない。昔は今ほど有名ではなかった。 

f:id:zukunashitosan0420:20200113160441j:plain(長野県立歴史館で撮影)

この地方には石ではなく木、丸太を削って道祖神人形をつくる風習がある。大きなものは1mを超える高さがある。孫引きで気が引けるが、説明はこんな風だ。

 野沢温泉の木像道祖神は、カワグルミ・シナノキ・シラカバなどの木を切り、上部の皮を削り、墨で顔を描く。着物は内山紙を切って、梅紋・巴紋を入れ、紙の帯で結んで男女一対を作り神棚に祀る。

一月十四日の夜から十五日の昼には「道祖神の年取り」と言って、この神像に灯明と神酒を供え、御馳走を供える。十五日には「お前の家を見せるぞ」と言って、道祖神場へ神像を持って行き、社殿に参拝する。
 道祖神場には平桶が置かれており、前年のものはそこに納めるか、前の人が置いて行ったよいものがあると、持ってきたものと交換してきた。これはよい縁が結ばれるとの意味からで、持ち帰った神像は再び翌年まで神棚に祀られる。

 

静岡のこの地では、お餅ではなくてお飾りのダイダイを焼く。黒焦げのダイダイを串刺しにして玄関に置くと災いを追い払えるのだという。

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*1 笹本正治「火祭りから何を読み取るか」『火祭り 奥信濃飯山発』ほおずき書籍

 

七草粥と若菜摘み

朝日射す七草粥のうすみどり

 

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正月7日の朝は、ささやかな習わしとして七草粥にすることにしている。七草は、もちろんスーパーで買ってきたものである。電気釜で粥炊きにセットする。

椀から湯気がたちのぼり、朝日に当たって光る。セリの匂いが立ち込める。

「うん、これだ。」

 

正月7日に若菜を摘むのは、「人日(じんじつ)」という宮廷の年中行事であったという。

「しかし、人日とか子の日の遊びというように行事として固定し、七日の「七」にちなんで七種の植物を摘むというように形が整理される以前に、若菜摘みがもっと自由な、日本的な風俗であったと思われる。」しかも「若者たちにとっては、それが恋と結婚の機会でもあったのである。」*1

 

若菜摘みと言えば、万葉集の劈頭の雄略天皇の歌の、明るくて若々しくて健康的なこの歌を思う。

「籠もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岡に菜摘ます子 家告らへ 名告らさね ・・・」

誰かの句にあった「人類の旬」を感じさせる歌ではないか。

この歌はいろいろに解釈されているようだ。妻問いの恋の歌(相聞歌)であるとか豊作の予祝儀式だとか、思う人に向けた魂振り的呪術だとか。

 

しかし信州のはずれの豪雪地帯で育った私にとって、若菜を摘むというのは正しく春の訪れ、命の再生、モノクロの世界が終わりカラーの世界が始まることを全身で感じ取る以外の何物でもなかった。3月の声を聞くとようやく風は南から吹いてきて、雪がゆるみ始め、墹(まま)に黒い土が見えてくる。子供らはみなそこに集まって、わずかに現れた土を懐かしさいっぱいにのぞき込む。そしてノビルやフキノトウが出てくると手を泥だらけにして採ったのものだった。その手はまだ凍みついている土で凍え切った。

家の食卓では、大人も一緒になってそれをささやかな春の訪れとして楽しんだ。

 

そんな少年には、百人一首で覚えた光仁天皇の歌

君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ

 

こうしたおしゃれな様式ばった歌はおよそ異世界のものだった。

繰り返しになるが、若菜摘みは3月頃のことだった。正月の野菜は、雪の下に保存した白菜や大根、人参で、それを食い繋いで春を待ったのだった。

最近は逆に、雪の下に寝かした人参などが甘みが増すというので特産化されてきた。酒もそうしたものがあり人気を得ている。鈴木牧之さんに教えてあげたいものだ。

 

*1 西村亨 「王朝人の四季」講談社学術文庫

初山河・初詣

仮設屋や淑気小さきドア飾り

 

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災害の多かった2019年。まだ仮設で大勢の方が生活されている。今年はオリンピックだが、まずは災害が少ないことを祈らずにはいられない。

 

晦日の深酒が覚めてきた元日の午後、近くの浅間神社に初詣。しかし閑散とした境内にはかがり火の焦げたにおいが少し残っているだけである。

 

この神社は、静岡平野の北のどん詰まりの山すそにあるので、北浅間といわれ、周りの沢山の社を合祀している。境内は、浅間神社をメインにして、天神社や西宮神社津島神社、市気島神社、神明社などの小さい祠が山肌に横一列に並んでいてそれを細い小径がつないでいるだけなので、参拝者は一列になり一人ずつしか通れない。

初詣には、大晦日から年が変わる真夜中に人出があり、地元の方が甘酒などをふるまったり太鼓の演奏などもあって、時ならぬ賑わいをみせる。そのため朝方まで長蛇の列ができるが、夜明け時分にはもうさっぱり人影がない。およそ派手さのない鄙びた初詣模様がみられる。

誰も参拝者のいない社で、私も災害のないことを祈る。家族の健康を祈る。

 

この後、裏のミカン山を歩いた。よく晴れて遠い山々から駿河湾まで見渡せる。

「初山河」という季語がぴったりだ、と思いながら息を切らせて小一時間。季語の「初山河」の心は、初詣の心かもしれない。ひいては日本人のアミニズム的な宗教というか心情も、つまるところ「初山河」「初景色」なのかもしれない。そこで一句、

いずれ行く嶺の白さや初山河

2020年の始まりはこのようなのでありました。

「時雨」連想―2

塾に行く足渋らせる時雨かな

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「さんさ時雨」は誰もが知る東北の民謡。伊達政宗の作という風説もあるが、事実はそんなに古くはなく江戸の中期以後、京都以西で唄われた恋の流行唄が伊達領一帯に移入されたものという。*3

とすると、「しぐれ」が好きな芭蕉先生は唄っていなかったか?

 

さんさ時雨か 萱野の雨か

音もせで来て 濡れかかる ションガイナ 

何か、古事記の神話でも想像させる艶っぽさがある詞を、哀調こめて歌う。間のとり方とか息の長さとかが結構大変で、私も公民館のクラブで挑戦してはみるのだが、褒められたことがない。

 

ここでは時雨を「音もせで」と言っているが、むしろ雨音を興趣とするむきもあった。清少納言の、

時雨、あられは板屋。霜も板屋、庭。枕草子 207段)を引いて、西村亨氏は

時雨やあられが板屋に降るのがいいというのは、その音に情緒を感じているのである。・・・時雨の場合は板屋にかすかに音を立てる、その聴覚に訴える情趣を味わっているのである。と言う。*1

 

そういう意味では、蝉しぐれ、虫しぐれともいうし、木の葉や松風、川の音も時雨とみなしたのだという。いろいろなイメージが背負わされている。

気象用語である「時雨」になぜこれほどまでに、人生のはかなさや諦観のニュアンスが付加されたのだろう。山本健吉氏は

神無月降りみ降らずみ定めなき時雨ぞ冬のはじめなりける(読み人知らず「後撰集」)

この歌が、時雨の本情をよく詠み取った名歌として喧伝された。「降りみ降らずみ定めなき」と詠み取ったことから、時雨と言えば、人生の定めなき、はかなさをあわせて感じ取るようになってきた。

と、その秘密を明かしている。

ことばの長い歴史の中で、「時雨」といえばそれだけで琴線を震わすように日本人の感性が訓練され、条件反射するように育まれてきた、のだろう。

しかしニュアンスに多様な面があり、現代人が「時雨」に初冬のしょぼふる雨を感じるのも全くの間違いでもないのかもしれない。

 

天地の間にほろと時雨かな   虚子 

 

(令和元年の大晦日です。予報では少し荒れそうです。一年ありがとうございました。)

 

*1 西村亨 「王朝人の四季」講談社学術文庫

*2 山本健吉 「ことばの歳時記」文芸春秋

*3 町田嘉章・浅野建二 「日本民謡集」岩波文庫

音楽ストリーミングサービス なるもの

冬籠りこのスピーカーとも五十年

f:id:zukunashitosan0420:20191224064613j:plain (探すに一苦労の雑然としたCD棚)

IT音痴の話。

 

息子が家に来て、積み重なった私の本棚やCDの棚を見て言う。

「親父が亡くなったら、俺がこれを処分するのか?」

まあ多分そういうことだろう。と、私は心の中で思う。 

 

そして彼は、バッグから小さいタブレットを取り出して、言うには、

「この中に読みたいものを何百冊も落とし込んである。いつでもどこでも読みたいものが読めるから図書館を持ってるようなものだよ。もう本を買って、本棚を置いて、それに埋もれてる時代じゃないよ。」

CDも同じ。もう音源を物理的に所有する時代じゃなくなった。新譜から古いものまで世界中のCD何千万枚が直ちに聞ける。」

 

というので、勧めに従って音楽ストリーミングサービスに入れてもらった。これは聴きたいときに聴きたいものを聴くことができるが、曲を買って保有する仕組みではないという。だから契約を解けば手元には何も残らない。月額払いの経費も安いものである。

 

パソコンと古いオーディオアンプを繋いで、さて、聴いてみた。音も結構良く、私の老いぼれスピーカーが喜んで鳴り始める。中にはCDより明らかに音質が良いものがあって、マスター音源だからだと彼は言う。

さっそく、気になっていたCDを検索する。とりあえずはハイドン弦楽四重奏曲で手持ちでないものを探すと、いくつものアルバムが出てくる。どれでも聴き比べができる。

新進の演奏家、珍しい楽器による演奏。それから現代作曲家の売れそうもないCD中南米などのクラシック、東ヨーロッパの民謡。次々と視聴。

聴いてみたいけれど買うまもないな、と思っていたものを遠慮なく聴ける。気に入ったらいわゆるお気に入りに登録しておけばよい。私の音楽情報が格段に増えることとなった。

これを機に錆びたスピーカーケーブルを20年ぶりくらいで取り換えた。またこじっかり音楽を聴こうという気になっている。

 

本でいえば電子書籍があるのだが、私の欲しいものはデータ化されていないケースが多いので二の足を踏んでいたが、ことこの音楽ソフトに関しては申し分ない。しかし無尽蔵のデータを自由に使えるようになった分、量に溺れそうな懸念がないわけでもない。

私としては、この情報の洪水の中の一滴だけでも、気に入ったものがあればそれだけで豊かになったと実感できる。

 

それにしても、と彼と話したのは、一枚3000円するCDをお小遣いを削って少しずつ買いためた、あれは一体どういうことだったのだろう、と。商品とか経済とかは、一体何なのだろう。情報とは何なのだろう。時代がこうした価値を急激に変えてしまった。

 

何時のころだったか、給料が現金から振り込みになって、働く手ごたえが感じられないなどと皆で嘆いたことを思い出す。それに似た感じが湧く、CD保有しないCD音楽。物権ではなく債権。大地ではなく橋の上を歩く感じ。

斯く言う息子も、一方では古いLPレコードを見つけては買い集めるようなアナログ面もあるようなのだが・・・。技術と感性はどう変わっていくのだろう。

思い出のCD(アンナー・ビルスマ)

貧しきは幸いなるか聖夜凍む

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古楽演奏の大家、アンナー・ビルスマが今年亡くなった。ピッコロチェロという小型のチェロを弾き、さわやかな演奏を聴かせてくれた。

私は彼のCDを2,3枚持っているだけで、熱心なファンという訳ではないのだが、忘れられない一枚がある。

Vivarteから出した、「ビオラダガンバのためのソナタ」というCDで、バッハのBWV1027,1028,1029が入っている。ボブ・ヴァン・アスペレンがオルガン伴奏をしていて、これも小型のオルガンを鳴らしている。ビルスマのピッコロチェロの軽快な音と小型オルガンのちょっと素朴な感じの音とのハーモニーが、それ以前のバッハの厳かなイメージとはかけ離れていて、明るくて実に心地よい。それでいて気品にあふれている。

で、直ちにこの一枚は私の傑作名盤に加わり、愛聴することとなった。1990年オランダでの録音だから、もう30年も前の盤になるが、それ以降これに敵うものを聴いていない。実はこの演奏を聴くまでは、dhmから出ていたクイケンのガンバとレオンハルトチェンバロによる演奏が素晴らしくて、もうこれ以上のものは出ないだろう、と思っていたのだった。

 

今年秋、古楽の愛好家で造詣も深かった友人が逝ってしまった。大学時代を過ごした仙台の「無伴奏」というバロック茶店に二人とも関わったという縁もあって、よく昔の話に花を咲かせたものだった。

夏に見舞いに行ったとき、私はこの愛聴盤のビルスマのCDを彼に渡した。その後電話がきて彼は、なかなかいい盤だね。と言ってくれた。「返さないでいいよ」と私は返事をした。