対馬の石は面白い

防人の積みし石なり北西風(アナジ)吹く

あなじ、とは対馬でいう冬の北西風のこと。対馬は風が強い。)

金田城

対馬の金田城は、663年に白村江の戦いに大敗した大和政権が、防衛のために急造した山城である。山頂を取り巻くように石を積む朝鮮式なので、百済の軍人が関与したのだろうと思われる。東国の防人たちが17人配備されていたらしい。その掘立小屋あとが残っていた。

対馬の旅の半日、金田城の山歩きに挑戦した。コースタイム約3時間の、怠惰な私にとってはきついコースだった。随所に現れる石垣は、一つ一つの石はそれほどの大きさではなく、防人たちも手で運んだのかと思われた。それにしてもこの陣地が実際に用をなすものだったのか、理解しにくいが、その巨大さから唐が攻めてくるという恐怖心の大きさは感じられる。

276mの山頂には明治時代に築いた砲台跡があったが、荒れていた。しかし浅茅湾の眺望は絶景というに値するものだった。

 



厳原の石垣

厳原の街に入ると直ぐに、素晴らしい石垣が随所に現れて驚いた。石は、他所では見かけない錆びかかった鉄のような変化にとんだ色をしていて、それらが組み合わさると、石垣はまるで抽象画の大画面のようだった。砂岩や粘板岩、石英斑岩などが材料らしい。屋敷の石垣や防火壁、敷石などが実に美しい。写真は厳原の八幡宮

 

 

(写真はE氏から借用)

石屋根

西海岸の椎根集落の石屋根を見にいって、驚いた。文字通り屋根が粘板岩の大きな板状の石を重ねて載せている。屋根の棟には心配になる程高く重ねてある。これは強風の対策のためであり庶民は瓦を禁止されていたからだとのこと。

板倉ともいわれ、壁は厚い板。柱は見たところケヤキなどの丈夫な材でしかも太い。内部は見られなかったが、何本ものアーチ形の梁が支えているという。高床式で中は2,3の部屋に仕切られ、それぞれ米麦そのた救荒食物、衣類布団、什器等を保存したという。椎根では10棟以上まとまっていたが一戸ずつ別の家のものだという。

厳原の観光案内所「ふれあい処つしま」に立ち寄ったときに、ご親切にも対馬の写真家仁位孝雄氏の「「石屋根の里・対馬」について」という貴重なレポートをいただいた。そのレポートによれば1978年に245戸あった石屋根は2004年には62戸に減少したという。むべなるかな。

 

藻小屋

木坂の海神神社の浜にあったものである。

これは石壁の建造物であり、海藻の肥料小屋で、晩春に藻を蓄えて肥料としたものらしい。写真の藻小屋は屋根も本来石屋根だったようだが、改修されていて、幾分観光用になっているようだ。が、内部は荒れていた。これも観光客にとっては、絵になる建造物であるが、すでに残るものもほとんでなく使命を終えている。

中国福建省や台湾、済州島に似た様式があり、文化の交流があったものと伺われる、と法政大学の漆原和子氏は、「対馬における屋敷囲いとしての石垣」で指摘している。

 

石だけを見に来ても対馬は面白いかもしれない。

 

(参考)

田吉六 「対馬の庶民誌」 葦書房

仁位孝雄「「石屋根の里・対馬」について」 2022.3.31

原和子、「対馬における屋敷囲いとしての石垣」法政大学学術機関リポジトリ  2007.3.31

アマテル、ツキヨミ、ムスビの神は壱岐対馬からか?

先にワタヅミ神社にヤマヒコ、タマヨリヒメ神話の世界を見てきたが、さらに国の誕生神話に類似する伝説を残す神社が壱岐対馬にはある。それは日の神のアマテル神社と月の神の月読神社、そしてムスビの神の神社である。

 

日本書紀では、イザナギイザナミに追われて冥界から帰還し、禊をした折に左目から天照大神、右目から月読命、鼻から素戔嗚命が生まれたとしている。天照は高天の原を、月読みは海を、素戔嗚は天下を治めることとされたが、しかし(一書)では、月読みは保食神を殺したため、天照は昼を、月読みは夜に住むこととなったとしている。

これらの神が、壱岐対馬に古くから鎮座しているというのだ。

 

対馬の阿麻氐留(アマテル)神社を訪ねた。

道路の付け替えにより、参道が国道382号脇から急な登りになっていた。社殿は写真のとおり村の社の態で、とても重要な神社とは見えなかった。

すぐそばが先日タモリのテレビ番組に取材された「小舟越」で、対馬の島の東西をわずか数十mほどで横断する地峡部。小舟はそこを引いて越し、大船は積み荷を降ろし乗り換え、遣唐使もここで下船し反対側の西の浦に出てからまた出航したと書かれている。神社は要衝の地にあったと思える。

 



一方、壱岐の月読み神社もまた道路の脇で改変を受けたようだ。現在は芦辺町国分に鎮座する。当社もまた村の神社程度の設えで、祭りの茅の輪がまだ残され里の人がたむろしていた。ここも橘三喜によって「山の神」と称され社殿もなかった場所が比定されたものという。

 

だがこの両社は歴史的にも重要で、日本書紀顕宗天皇三年の条に、こんな話が載っている。

阿閉臣事代(あへのおみことしろ)が、任那に使いで赴くとき「月の神」が人に憑いて「わが祖先、高皇産霊(たかみむすひのみこと)は天地をつくった功績がある。田地を奉れば、慶福が得られるだろう」といった。これを天皇に告げて、山城の国の歌荒樔田(うたあらすだ)を奉った。そして壱岐の県主の祖先の、押見宿祢が祀り仕えた。

後日さらに続けて、今度は「日の神」が人に憑いて「倭の磐余(いわれ)の田を、わが祖先の高皇産霊に奉れ」というので、田14町を奉った。そして対馬の下県直がこれを祀り仕えた。磐余は奈良県桜井市、大和政権誕生の地である。

この条文は何を意味しているのか。永留氏の説くところを聞いてみよう。

「この月神こそ壱岐の月読み神社の祭神とみられる。日神の託宣は、対馬にある阿麻氐留(あまてる)神社の祭神とみられ、この日月両神がわが祖と呼んだ高皇産霊は、対馬の高御魂(たかみむすび)、壱岐の高御祖(たかみおや)とみられることから、おそらく対馬の古族は日神を祀り、壱岐の古族は月神を祀っていたことが知られ、それは亀卜と関係していたものと見られる。」(*1)

対馬では、「人々は天ノ神を祀ることを大切にしていた。古代中国の王朝で天帝を祀ったように、対馬の古代豪族は日子と称し、天ノ神を祀り亀卜を行った。」(*2)

また山城国(京都)に土地を献じたことは、壱岐県主の一族が中央に出て、朝廷の卜部となったことから、その祭祀を畿内に遷したときの所伝とみられる」

「なお私見では、日本神話の名神天照る神(あまてる)は対馬、月読み神は壱岐を本祀としたもので、ムスビ(皇産霊)の神も二島にあり、日本神話の形成時に卜部が重要な役割を果たしたものと思われる」と、こちらが本貫だろうとしている。

 

なぜ本来壱岐対馬に坐ます神々が、畿内の大和政権下に分祀され皇祖神話に取り込まれていった。それには卜部の影響があったといわれる。

 

壱岐対馬の卜部

律令制度は、日本が中国に倣って作り上げた国家の仕組みで奈良時代養老律令でほぼ整理を終わったという。この中に神祇官という機関が設置されているが、それは中国にはない特徴だという。神祇官は朝廷の祭事や各地の神社を管理したが、その中に占い師、卜部がおかれ、亀甲を用いて天皇の健康や祭りに関する占いをして神意を伺っていた。この卜部には、壱岐5人・対馬10人・伊豆5が任じられていた。壱岐も伊豆も元来は対馬の卜部の一族から出たものと見られているという。

卜占は、殷の時代に盛んにおこなわれたが、「朝鮮諸国には確実な亀卜の資料はない」ので対馬にどのように伝わったのかは、不明のようだ。(*3)

古い時代に大陸から、卜占の技術を持った人たちが渡来し、辺境の対馬でその文化を伝え維持した。そして対馬では明治維新まで卜占の歴史は続いていたという。殷は紀元前1000年頃滅んだ国で甲骨文字を残した国である。その時代から連綿と続いていたとは奇跡としかいいようがない。

 

壱岐対馬の卜部がなぜ大和に進出したのか。それは卜占が先端的な知識であり、神の真意を伺う正しい方法と考えられていたからに違いない。政治もこの卜占に従って行われなければならなかった。大和政権はこのような優れた神々を選んで皇祖と結び付け換骨奪胎して皇祖神話を作製し国家の祭祀を整備したのだろう。

だが進出というよりむしろ神と祭祀権を差し出すということは、部族の服従を意味していたととるべきなのだと思われる。そして卜部氏は大和政権の配下となったのだろう。

 

私は壱岐一支国博物館で、動物の肩骨を焼く卜占の実物を見ることができた。想像したものより小さかった。だが亀の占い、亀卜の展示は一つだけで私にはその方法はよく理解できなかった。対馬の博物館は、残念ながら休館日。

 

永留氏は次のような興味ある話を紹介している。(*4)

中国古代の古都(安陽、洛陽、長安など)が「およそ北緯34度半の線上にあり、この線を東に延長した線上に、日本の古代王朝の発祥の地である河内、南大和があり、その線の両端に卜部らの本国対馬と伊豆がある」という説だ。そして、中国では卜占によって都を定めた記事があるので、日本神話においても博識な卜占によって橿原の地が選定されたに違いない、と推察している。卜占をした人々は天文学的な知識も持つ知識階級だったことがよく分かる。

 

では天皇家の祖の伊勢の天照大神対馬の神社の神、そのものだったのだろうか。

だが大和朝廷記紀神話は、壱岐対馬の日と月の神信仰をそのまま持ち込んでつくられた、という結論には直結しないという人もいる。

松前健氏は「日本の神々」(中公新書)において、アマテラス、アマテルという神について、畿内及び周辺地区に「天照御魂神、(あまてるみたまのかみ)もしくは天照神(あまてるかみ)という名の神を祀る神社が随所に見える」として、これらは、伊勢の天照大神とは別の日の神であること。男性神格であること。尾張氏が奉戴したものが多く、一部は対馬系であること。いずれも海人族にゆかりの神であることなどを唱えている。すなわち日の神信仰は各地にあったということだ。

「この天照御魂神は、皇祖天照大神の原型(プロトタイプ)の一つであり、また事実後世に天照大神を祀る社であるとされたものも、古くはこの神を祀っていたものが多い」として「天照御魂神→天照大神というコース」については今後も研究が必要だと慎重に説いている。簡単ではないようだ。(*5)

 

ムスビの神

日月両神が、わが祖と呼んだ高皇産霊は、対馬高御魂(たかみむすび)、壱岐の高御祖(たかみおや)と言われている。ムスビの神とは、古事記の冒頭に出てくる造化の三神の一人で最高神である。ムスビとは本来呪術的意味のある言葉で、縁結び、ムスコ・ムスメ、オムスビなどの言葉があるが、「ムスビとは、霊魂を鎮守することによって神を出現させること」と折口信夫は説いているという。(*6)

ところで今日の世間一般では,皇祖神(天皇家の祖先神)を天照大神(アマテラスオオミカミ)とする観念が流布しているが,記紀の伝承群を精査すると本来の皇祖神はこのタカミムスヒであり,アマテラスがそこに位置づけられてくるのは,比較的記紀成立に近い時期と思われる。(*7)

そしてこの神こそ本来の皇祖神だという考え方もあるという。

 

対馬の高御魂

神社は、現在、豆酘(つつ)の多久頭魂(たくずたま)神社の境内に鎮座している。タイトなスケジュールの中で、参拝することができた。

豆酘への道路は道を間違えたと思うほどの山道で、まだまだ隣部落に行くにも大変そうな険しい地形である。車がぎりぎりの狭い村の道を行くと、鳥居が見えた。私はこの鳥居をくぐり参道を歩きはじめると、急に何か深閑とした感覚に心が震えた。

私が霊感に優れていることは、全くないのだが。(因みにこれまでこうした感覚を感じたのは、大山祇神社(伊予:大三島)籠神社の奥宮(丹後:天橋立)の二社)

高御魂(たかみむすび)神社は、やはり質素な、むしろさびれた社殿でうっそうと茂った広葉樹林のくらぼったい森の中にあった。これが記紀神話に出てくる造化の最高神だと感じさせる豪華さは何もなかった。

 

永留氏は、

日本の皇室神話でも天皇を日ノ神の裔と伝え、その系譜は、

高皇産霊尊(たかみむすび)―天照大神(日神)―日子 となり、

これは対馬の古代豪族の

高御魂神(たかみむすび)―天照神(天日神)―日子 という系譜に極めて近く、共通の根より発した所伝に違いない。(*2)

として、対馬を中継ぎとして古代中国の祭典の古俗が日本の王朝祭祀に通じたのだとしている。

 

いつの頃か高度な抽象的、思弁的な神が卜占の技術とともに、大陸から対馬に到達し、さらに通過して大和に行きついたのだと思われる。

 

こうした神社を巡っていると、私は、対馬にまだ古代神の名残が燻っているような思いにとらわれ、自己満足レベルであるが、一時、古代に思いを遊ばせることができた。

対馬の神社にはいろいろ複雑な要素があり、一度の一の宮巡りではとても理解できるものではない。(対馬に特徴的な天道信仰やソトの古俗なども興味深いが、とても手に負えないので、今回は敬遠しておきたい。)

 

なお、今回の対馬の旅では、対馬観光案内所「ふれあい処つしま」に立ち寄ったときにいただいた資料が大変役に立った。特に『対馬神社ガイドブック』(対馬観光物産協会発行)や砲台の資料がコンパクトかつ要領を得ていて重宝した。また石屋根の資料などもいただくなど、懇切なおもてなしを受けたので、感謝して記録しておきたい。

 

参考

*1 永留久恵 「月読神社」『日本の神々』1 白水社

*2 同 「阿麻氐留神社」 

*3 永留久恵「古代日本と対馬」大和書房

*4 永留久恵「古代日本と対馬」大和書房167p (古代王権と亀卜)

*5 松前健 「日本の神々」中公新書

*6 永留久恵 「高御魂神社」 『日本の神々』1 白水社

*7 朝日日本歴史人物事典「高皇産霊尊」の解説

 

韓国が見えた

望郷や海市の如くプサン見ゆ

対馬の最北端、韓国展望所までは厳原から約80キロ。途中の道路は整備が進められていて長いトンネルがいくつも島を貫いていた。そしてほとんど制限速度表示がない、ということは普通60kmということでこれも本州ではあまり見ないことだ。それでも2時間近くかかりぐったりと疲れた。

展望所は韓国風の建物で、売店がある訳でもなくパネル・地図が少しあるだけの展望台だった。

展望所に上がり目を凝らすと、彼方の海上に島影と何かがぼんやり見える。カメラを望遠にすると明らかにビル群と分かる、釜山の街並みだ。想像以上に韓国がよく見え、「あれはビルだ。ここまで来た甲斐があったよ」と皆で感嘆。

釜山までは隔てること50㎞。ここはまさに韓国に顔を突き合わせているような国境の島だという実感が湧いてくる。ここから遥か祖国を望んで涙する人もいるのだろう。

初期の遣唐使船は対馬から対岸に渡ったのだろう。元寇は実質は高麗の軍だったが、それが海上一面の船団で来たのだろう。倭寇の頃はこの辺からも海賊が出撃したに違いない。波を見ていると大陸との交流という言葉が、幾分か実感を伴ってくる。

有史以来大陸から多くの人間がこの海峡を渡ってきた。彼らは文化や産業を持ってきて、在住の人たちと混血した。白村江の戦いの後も、百済から大勢の知識人が日本に逃れてきた。こうしたものが混合されて日本が成り立ったにちがいない。対馬は入り口であるだけに、その痕跡が島の文化の底辺に残っているはずである。もう少し神社を見て回ろう。

曾良(俳人)の墓

壱岐の宿なるほど硬し新豆腐

 

河合曾良の墓)

曾良の墓が、壱岐にあると知ったのは司馬遼太郎の「街道をゆく」からだった。

司馬遼太郎によれば、曾良芭蕉の亡きあと、幕府の巡見使の一員となって壱岐にわたり、島の北端にある勝本の港の海産物問屋中藤家に泊まった。そこで曾良は病に伏してそのまま亡くなった。墓はその中藤家の墓地にある。とのこと。

勝本には城跡が残っている。これは秀吉が朝鮮出兵の折に急造したものらしい。穴太衆の石垣が残っていて国指定の文化財である。展望台からは遠く対馬が見渡せた。

墓はその一角にあるというので四人で捜し歩いたのだが、なかなか見つからない。E氏は荒れ道を先導し、S氏はGPSを使って、わずかな標識を辿って迷いながら歩き、ようやく見出した。港を見下ろす少し暗い場所だった。

特に感慨は沸かなかった。

(勝本城址

 

曾良芭蕉の「奥の細道」に同行した人だが、それまで芭蕉の台所などこまごまと面倒を見てくれていたようだ。細かな心配りのできる人だったのだろう。芭蕉ももちろん心強かったに違いない。

奥の細道では、加賀の大聖寺というところで曾良「腹を病みて・・・先立ちて行く」と書かれているので、そこから芭蕉は独りになったが、人気俳諧師なのでゆく先々もてなしを受けて困ることはないようだ。

芭蕉「旅人と我が名呼ばれむ初時雨」というとき、何かしら舞台で漂泊を演じている感じがしてしまうのは、私だけだろうか。それに比して壱岐で死んだ曾良は、寂しい旅人の感じがする。

白河の関跡には芭蕉曾良の像があった)

 

 

折角なので、手向けの気持ちもこめて「奥の細道」に目をとおし、曾良の句を拾ってみると、意外に多くあるので驚いた。

剃捨てて黒髪山に衣更  (黒髪山

かさねとは八重撫子の名なるべし (那須野)

卯の花をかざしに関の晴れ着哉 (白河の関

松島や鶴に身をかれほととぎす (雄島の磯 :松島)

卯の花に兼房みゆる白毛かな (平泉)

蚕飼(こがひ)する人は古代のすがたかな (尾花沢)

湯殿山銭ふむ道のなみだかな (月山・湯殿山

  祭礼
象潟や料理何くふ神祭 (象潟)

  岩上にみさごの巣を見る

波こえぬ契ありてやみさごの巣 (象潟)

ゆきゝてたふれ伏すとも萩の原 (大聖寺

夜もすがら秋風聞くやうらの山 ( 〃 )

真面目に拾ってみたら、11句もあった。ちなみに芭蕉の句は50句だ。

読んでみると機知が目立ち、今一つ深いところに届かない感じがする。情より知の信州人だったのかもしれないと思わせる。

中では大聖寺での「ゆきゆきてたふれ伏すとも萩の秋」はいい句だと思う、司馬遼太郎もそう評していた。文化13年(1816)に発行された「俳家奇人談 巻の中」(岩波文庫)をみると、曾良も紹介されていて、やはりこの句を代表として掲載している。芭蕉「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」よりも、ポーズが感じられないので私は好感がもてる。

 

 

一の宮巡詣記(67番) 対馬の和多津美神社、海神神社

和多津美神社(対馬

所在地 対馬市豊玉町仁位和宮55

祭神 彦火火出見尊豊玉姫命

参拝日 令和4年10月21日

 

 

 対馬一の宮として有力なのは、仁位の和多都美神社と木坂の海神神社の二社である。

「海神」の社名は本来これでわたづみと読むのだが、仁位の神社と紛らわしいので、かいじんと呼び習わしているという。すなわち両社同じ社名である。

ワタヅミは、ワタは海の古い言葉、ツは助詞の、の意味、ミは神霊を意味する。いうまでもなく海を支配する神である。対馬には、上記のほかに2社あるといい、いかにも海の只中の島を感じさせる。

まず仁位の和多都美神社を訪れた。

島の中央部をえぐるような浅茅湾からさらに入り込んだ深い入り江の奥に鎮座していて、その鳥居は浅瀬の水に浸っており、厳島神社に劣らない美しさである。山道をウネウネと走ってきた参拝者には、実に爽やかな印象を与え、ここまで来た甲斐があったとおもわせてくれる。神は海から訪れ、参拝者も昔は当然海から来たのだろう。

 

当社の由来書は次のように説明している。

海神の豊玉彦尊には一男二女の神があり、男神穂高見尊、二女神は豊玉姫命玉依姫命という。ある時、彦火々出見尊(山幸彦)は失った釣り針を探して上国より下り来て、この海宮に滞在すること3年、終に豊玉姫命を娶り妻としたと伝わる。

彦火々出見尊は「山彦」、豊玉姫命は「乙姫様」なので、これは日本神話の海幸山幸である。

 

対馬神社ガイドブック』(対馬観光物産協会発行)を抜粋すると次のようなことになる。

対馬の伝承では、山幸彦は失くした釣針を探す旅で対馬の各地を転々とし、豊玉姫と出逢うのが豊玉町仁位の和多都美神社。二人の間に子神であるウガヤが誕生したのは鴨居瀬というところ。豊玉町千尋藻の六御前神社にはウガヤと6人の乳母が祭られています。

また、兄の海幸彦は九州南部(鹿児島・宮崎)の隼人(はやと)の祖先とされており、対馬をふくめた九州北部の海洋民が信仰していたのが海神・豊玉姫だとすると、天皇家の祖先である山幸彦の一族と、九州北部の海洋民が手を結び、九州南部の隼人勢力を征服したという歴史物語が見えてきます。

と島内に山彦の足跡が残ることなど興味ある説明をしている。

 

神話ではその後、豊玉姫は出産のとき山彦にワニの正体を見られて、いろこの宮に還ってしまい、代わりに妹の玉依姫が乳母として登場しウガヤを養育し、さらにウガヤの子を産み、それが初代の神武天皇となる、という話になるのは誰もがよく知るところだ。

 

ところで、和多都美神社前の干潟には奇妙な石が祀られている。一抱えほどの大きさである。

これは「磯良エベス」と呼ばれていて、石の表面がうろこ状に亀裂が入っていて、あたかもワニやヘビを想像させる。神話にトヨタマヒメが出産のときに八尋のワニとなり、のたうち回っていた。これを見た山彦はびっくりして逃げ出したという場面があるが、それを連想させるに十分である。として、永留氏は、「これが原初の神体だったにちがいない」、「海神宮を「いろこの宮」(いろこ=鱗)と称したゆえんも、これがそのシンボルかと考えられる」。*1 と書いている。

この石の奇怪さは、古代人に畏敬とともに物語を紡ぎださせた、のだろう。

「磯良エベス」とは、奇怪な顔した神で、海底に棲む奇怪な海の神だとも、豊玉姫の子ともいわれウガヤフキアエズとも同一視されている。」*2 その顔つきは、オコゼのようだと言われている。

谷川健一氏は「古代海人の世界」で「安曇磯良とオコゼ」を1項おこしているが、「もしオコゼが磯良のイメージの原形であるとすれば、オコゼは魚の主もしくは海霊であり、海の神そのものである。・・・オコゼは海の女神自身そのものだったことになる

*3 としている。古代人の人知を超えたものに対する畏敬と逞しい想像力が垣間見える。

話は飛ぶが、今回、壱岐でオコゼの刺身を食べてしまった。貴重な体験だった。神であったら祟りがありそうだが、何とか全員無事に帰還できている。

 (オコゼ:写真は同行のE氏)

 

(参考)

*1 永留久恵 「和多津美神社、海神神社」『日本の神々』1 白水社

*2 「対馬神社ガイドブック」~神話の源流への旅から: 対馬観光物産協会発行

*3 谷川健一 「古代海人の世界」小学館

 

 

海神神社 (対馬

所在地  対馬市峰町木坂247

祭神 主祭神豊玉姫命配祀神彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命  

参拝日 令和4年10月21日

さて一方、

木坂の海神神社は、峰町木坂伊豆山に鎮座している。鳥居前は平地となっていたが多分その昔は渚であったと思わせる。そのぶん趣では仁位の和多都美神社に軍配が上がる。

境内に入り背後の伊豆山につけられた石段は、二の鳥居から急になり本殿につくとへとへとだった。森閑とした社叢である。

主祭神豊玉姫命配祀神彦火火出見命、宗像神、道主貴神、鵜茅草葺不合命を祀っている。由緒書きによれば、

 「本社は、延喜式神名帳所載、対馬上県郡名神大社和多都美神社に比定され、神功皇后の旗八流を納めた所として八幡本宮と号し、対馬一ノ宮と称されたもので、明治四年に海神神社と改称、国幣中社に列せられた。」

とのこと。しかし中世以降は江戸時代までは八幡神を祀っていたという。

「古い由緒には、神功皇后新羅親征の帰途、幡八流を祀らしめたもので、わが国の八幡宮創始の地」と伝えているという。宇佐八幡に抗して、八幡宮の元祖を唱えているのも面白い、と永留氏は言う。だがこれは少し後世のことになる。

 

ここでの御朱印は、無人社務所に置かれていた。仁位の和多都美神社でも海神神社の御朱印がいただけるが、先に海神神社に詣でた後でないと書いていただけない、ようだ。

さて、こうした海神神社に見られる記紀神話との類似性は、どう解釈するべきなのか。諸説はあるが、確かなことは分からない。

神話学者の大林太良氏は、海幸山幸の話について「英雄が失われた釣り針を求めて水中に赴き、取り戻してくる形式の説話」は「太平洋のまわりに非常に広く分布している」。そして特に「インドネシアからオセアニアの一部にかけて分布する話」が、共通点が多く注目されているとしている。(*1)

ということは、記紀の神話には、古い文字もない時代からの神物語が、海人たちにより連綿と語り伝えられ、悠久の時を越えて書きとめられているということだ。これを伝えている神社を祀ってきた人々は、はるばる南の海から来たのかもしれない。

 

それにしても、日本神話をそのまま抱えたような神社が、壱岐対馬にはたくさんある。

山彦、豊玉姫だけでなく、対馬には非常に思弁的な天文学的な神であるアマテル神社、壱岐には月読神社がある。しかもこれらは壱岐対馬から畿内分祀されたという記事もある。これはどうも海人とは別のルーツを持っている雰囲気がする。

「日本中で対馬だけが異例で、天津神たちが土着神として島内にいくらでもーーーごろごろと祀られているというのはどういうことであろう。天津神古神道にもちこんだのは対馬がさきなのか、記紀天皇家がさきなのか、よくわからない」司馬遼太郎氏も首をかしげている。(「街道をゆく」13)

 

私は依然高千穂を歩いたことがあるが、大和の記紀神話と田舎のローカルな神話とが奇妙に符合しており、どう考えたらいいのか、頭が混乱した。今回もまた同じ感慨である。国境の神々が、記紀神話の神、ひいては天皇家の祖であるのか?

分からない。

私の能力を超えているが、さらにこの島に特異な卜占や、アマテル、ツキミの神々、そして日本神話の最高神ともいえるタマミムスビの神をたずねて、まだ少し妄想を重ねなければならなそうだ。

 

*1 大林太良 「神話の話」講談社学術文庫

壱岐対馬の野の花をちょっと

対馬海流のお陰で暖かいのだろう、壱岐対馬の森はシイなどの照葉樹が目立った。それは伊豆などに似た雰囲気だった。対馬の金田城(257m)にシイの実を踏んで上ると、眼下には絶景が広がっていたが、陸地は文字通り一面の山と森林で、素人の私の目にはスギなども結構見られた。

いくぶん本土とは植生が違うのだろうか、と思いつつ、歩行中に眼についた路傍の花をせこせことスナップショット。

ダンギク (シソ科)

私は初めて目にした。写真は対馬の金田城で見られたもの。島内ではふつうにみられるようだ。花は段々につくからダンギクというのだろう、だがシソ科でキクらしくはない。九州北部や対馬に多いとのこと。花の少なくなるこの季節、紫が鮮やかだ。

 

トウワタ (キョウチクトウ科

これは対馬の最北端、韓国展望台の近くにある豊砲台跡地で。南アメリカ原産で日本には江戸時代末期の天保年間に渡来したようだ。静岡ではあまり見かけない。派手な花だ。寒さに弱いので暖地でないと自生しない。別名はアスクレピアス。これも初めて目にした。

 

ヤクシソウ (キク科)

静岡近辺で見ているものとは印象が違い茎などもしっかりした様なので、当初ヤクシソウとは思わなかった。壱岐対馬ではいたるところに見られ、景色を賑やかで明るくしている。これも豊砲台跡地で。

 

ナンテンハギ (マメ科

壱岐の勝本城址の公園で。この城は豊臣秀吉が朝鮮侵攻の際の兵站基地として、わずか4か月で完成させたと言われている。穴太衆が造った石垣は堅牢で今も当時の姿を残している。多分ナンテンハギで珍しいものではない。

 

ヤマハッカ (シソ科)

これも壱岐の勝本城址で。珍しくはない花だが、野の花らしくていい。シソ科の同定にはあまり自信がない。ハッカの匂いはしなかった。

 

オガタマノキ (モクレン科)

壱岐住吉神社境内にあり、壱岐の銘木に指定されている。こんなに実をつけているのも初めて見る。オガタマノキは、招魂(おきたま)から転じたと言われて、神社によく植えられている。天鈿女命(あめのうずめのみこと)がアマテラスを天の岩戸から呼び出すときに、この木の枝を持って踊ったといわれる。また鈴はこの木の実を模したものとも。私は文献などを知らない。

季語「春一番」は壱岐うまれ

壱岐対馬つかず離れず冬の靄

(防潮堤の文字が目立つ)

壱岐では、郷ノ浦に宿をとった。早朝に漁港を散歩すると、快晴の玄界灘は水平線まで雲一つなく、素晴らしい深い海の色だった。句にしたような靄など全くない。

入り江の防潮堤に進むと、大きく書かれた「春一番発祥の地」の文字が目に入った。「春一番」は春先の強風のことだが、「発祥の地」とは何の意味だろうと、いぶかしく思い近寄ってみると慰霊の碑がある。

さらに背後の丘の元居公園になっていて、上ってみると、白い2本の「春一番の塔」が立てられていた。そこに詳しい解説版があり、要約すると次のようである。

 

安政6年(1859)の旧暦2月13日、五島沖にて鯛漁をしていた郷の浦の漁船は、突然の強烈な南風に襲われた。そして船は転覆し、53名の漁民たちは船もろとも海中に消えていったのである。

漁民たちは、春先に吹く南方からの暴風を「春一番」「春一」「カラシバナオトシ」と呼んで以前から恐れていたが、天候の急変になすすべもなかった。

事故後、元居浦では五十三霊慰霊碑を建立し、毎年その日は、どんなに海が凪だろうと、沖止めをして海難者の冥福を記念する行事を行っている。

春一番」の用語は、壱岐の調査に訪れた民俗学者宮本常一の目にとまり、俳句の季語として紹介(*1)され、以後マスコミでも使われ、気象用語として定着している。

(*1 1959年に平凡社版『俳句歳時記 春の部』(富安風生編))

(慰霊碑)

気象的には、日本海側を発達した低気圧が通り、それに向かって南から強風が吹き込む、低気圧が通り過ぎた後は急に気温が下がることがある、という状態のようだ。

 

春一番」は、春への期待を含んだ温かい言葉だと思っていたが、まるで逆であった。そういう目で、「俳句歳時記 春」(角川文庫)を見ると、

貝寄せ風、涅槃西風(ねはんにし)、比良八荒、春疾風などが載っていて、いずれも春先に吹く災害をもたらしかねない強風のことである。それを日本各地の風土の中でそれぞれの言葉に定着させたものであり、味わいのある季語(言葉)だと改めて思った次第。

 

春一番島に神父のおくれ着く  中尾杏子