駿河七観音を巡るー7 鉄舟寺(久能寺)

f:id:zukunashitosan0420:20210319164026j:plain 

 

私の七観音巡りも7番目、鉄舟寺でいよいよ最後を迎える。

友人からの情報で、毎月16日に定期清掃している人たちがいて、その折に観音堂の内部が見られるというので出かけた。寺は日本平丘陵の東の端にあるが、観音堂は標高約50mの場所にあり、本堂脇から急な石段が続いている。息を切らして登ると、清水港を望む抜群の眺めがまっていて、富士山が広くすそ野を伸ばし、手前に清水の港が広がっている。思わず知らず深呼吸、そしてしばらく立ち止まって見とれてしまった。

 

f:id:zukunashitosan0420:20210319170451j:plain

(この写真は2月、日本平から  ほぼ同様の景観である)

 

お堂も実に立派で、何十人も入れる広さがある。60年に一度御開帳という千手観音は今京都の方に修理に出ていて留守なのだそうだが、奈良から平安時代の作で、像高も155㎝と大きいものらしい。ただし材は針葉樹であり、伝説の行基が彫ったというクスではないようだ。堂奥脇には仏を守る二十八部衆が所狭しとひしめいている。いずれも古いものだ。

f:id:zukunashitosan0420:20210319164200j:plain

掃除をされていたのは、二人のおばさんだった。伺うと、ボランティアが集まって毎月15,16日と掃除をし、16日と17日は経をあげるのだそうだ。今日17日は

彼岸の入りでもあり皆さんお忙しくて、お出でにならないようです。

まだ下手ですみませんね、

と仰られるが、私も経を聞かせてもらった。経は、般若心経と観音経の一部、それから地元の白隠さんの和讃だった。私もその間じっと瞑想?して、うとうとしていた。経の後お茶などもいただいて、お堂の話などを伺って、楽しい時間を過ごさせていただいた。

 これまで七観音を巡ってきたが、観音様へ経をあげる現場には、初めて出遭った。しかも在家の人がこうしてお堂を守って皆さんで経をあげているというのも初めてだった。信仰の場はこうして守られ、名もなき仏像たちもこうして保護され伝えられてきたのだなと、何か心にしみるものを感じてしまった。

 

さて、この寺の歴史は少し複雑なので、簡単にメモをしておきたい。鉄舟寺の前身は久能寺であり、現在の久能山東照宮がある峻険な丘陵の上にあった。数キロ離れている。久能寺は建穂寺と並んで中世には駿河を代表する一山であった。山上だけでなく、下の山地や谷にも沢山の寺があり鎌倉時代には、300を超える僧房を抱えていたという記述もあるようだ。戦国時代に甲斐の武田軍が駿河に侵攻し、久能山を山城とするため、1575年に久能寺を現在の鉄舟寺の地に移した。中世には隆盛を誇った寺も、その後江戸時代末には廃れており、明治の初めに旧幕臣であった山岡鉄舟臨済寺から僧を招聘して1883年に寺を再興することとし、そのさい鉄舟寺と改名したと言われる。

鉄舟は180㎝を超す大男で、豪胆。明治維新の江戸無血開城の条件を、西郷隆盛と直接交渉した男である。西郷と勝海舟の会談が良く知られているが、実際は鉄舟がすべて前段で交渉したものだという。境内には鉄舟の像がある。

f:id:zukunashitosan0420:20210319164438j:plain

 

また鉄舟寺には、現存最古の国宝である「法華経」が残されている。もちろん久能寺から引き継がれたものである。1142年、崇徳・後白河天皇の母である待賢門院の出家に際して書写されたものという貴重なものである。また源義経の寄贈した横笛「薄墨の笛」も伝わっている。田舎の寺としては破格の宝物である。それだけ久能寺の権勢が偲ばれるというものだ。

 

久能寺といい建穂寺といい、一山をなしていた大寺院群は現在、細々と脈絡を保っている。

そして駿河七観音を巡る人もほとんどいないのだろう。ネットで瞬時に世界の情報を知れる時代ではあるが、実は案外足元のことは分からないものだ。自分の足で歩いた七観音の情報、そしてそれに関して思いめぐらす時間は、私にとって貴重で楽しいものとなった。

 

旧東海道筋に、「久能寺観音堂道」という道しるべが残っている。1778年の建立である。静岡鉄道狐ヶ崎駅を降りて、旧東海道を50mほど東に行ったところにある。東海道を歩いた人々がこの標を見て、

ちょっと遠回りになるが、このお堂に寄って、久能の東照宮をまわって行こうか?などと思案したのかもしれない。f:id:zukunashitosan0420:20210319164745j:plain

 

また3月11日に

雪の果て三月十日までは日々が在り

 

f:id:zukunashitosan0420:20210312091231j:plain

(2013年5月 仙台市の荒浜近く の住宅跡地)

 

3月11日が今年で10年をむかえた。私はこの日、災害を忘れないために、録りおいた津波のビデオを見ることにしている。その都度、打ちのめされる。犠牲者に手を合わせる。

この時を境に、いろいろな人生があったことを改めて知る。避難生活や原発の現状を意識する。

震災から2年たった時に東北を訪れた。その時に仙台で出遭った東六郷小学校の生徒たちに、枇杷を送ったらたくさんのお礼の手紙をいただいて逆に驚いたことを思い出す。小学校は津波で使えなくなり、当時、中学校を使わせてもらっていたようだが、その後、廃校となったと聞いている。あの子供たちも大きくなっただろうな。

啓蟄の日の芽ぶき

啓蟄蚯蚓ぬくぬく土を喰う

 

今日は啓蟄。24節気の一つで、虫が穴から出てくるという意味だという。いよいよ賑やかになる。自然界は上手くできていて、虫たちは草の芽生えに合わせて姿を現す。そうして緑をバリバリ食って成長する。草もまた受粉などを虫にいろいろ依存しているから、これはお互い様である。虫が出てくると、次はトカゲなどが現れる。食物連鎖、というのだろうか。

私の庭にも、たくさんの野草の芽が出始めた。それぞれが不思議なほどそれぞれ違うデザイン、そしてそれぞれが美しい。とりあえず三つ四つをメモしておこう。いずれ咲いたらその姿を掲載するつもり。

 

これは、ヒメカンゾウユリ科)。夏にニッコウキスゲのような黄色くはかない一日花をつける。 

f:id:zukunashitosan0420:20210305100452j:plain

 

これは、イワタバコ(イワタバコ科)。縮まった葉がなんともいじらしい。日陰で美しい花をつける。

f:id:zukunashitosan0420:20210305100541j:plain

 

これは、ウラシマソウサトイモ科)。花は仏炎苞に包まれ、苞の先が糸状に長く伸びて、それを浦島太郎の釣り糸に見立てた。 素晴らしい命名

f:id:zukunashitosan0420:20210305100630j:plain

 

これはワレモコウ(バラ科)。葉がギザギザしている。秋になればトンボがとまる。

f:id:zukunashitosan0420:20210305100809j:plain

 

「土匂う」 いい季語だね

信州のしょんべん小僧や土匂う

 

f:id:zukunashitosan0420:20210303154723j:plain

(フラサバソウ :オオバコ科)

 

日向は土が温まって、草の芽が一斉に芽吹き始めた。せまい十坪の庭も徐々に草に覆われていく。その上に、馬酔木と椿がほころんで贅沢に落ちている。

このところ毎日、何度も何度も草の芽を視に庭に出て、気が付くと、草の相手をしている。本当に、草に遊んでもらっている。

この花は勢いがなくなったので、場所を変えようとか、この鉢は少し大きいのに植え替えようとか、芽が出ないのがおかしいと少し掘ってみたり、モグラの音がしないかと耳をそばだてたり、ついつい肥料を撒いてみたり・・・。

 

さて、我が家の庭の住民たちだが・・・。

フラサバソウは、毎年早々と満開になる。これは軟弱なので、ある程度好き勝手にやらせているが、繁茂する。花は2㎜ほどしかないけれど、よくみると実にきれいだ。

リュウキンカは山地の冷たい水場などによく見られるが、我が家では2月半ばから咲き出し、結構勢いが良い。金ぴかの色つやが元気をくれる。夜は花弁を丁寧にたたんで眠る。

f:id:zukunashitosan0420:20210303154840j:plain

リュウキンカ: キンポウゲ科

 

セントウソウは、1㎜ほどの小さな花をびっしりつけて、春の先頭を切るように咲き出す。可もなし不可もなしだが、しっかり季節を教えてくれる。

f:id:zukunashitosan0420:20210303155003j:plain

セントウソウ: セリ科)

鉢ではムサシアブミがもう独特の花をつけ始めた。

タンチョウソウという名の花も、咲き出した。

f:id:zukunashitosan0420:20210303155140j:plain

(タンチョウソウ: ユキノシタ科)

 

シンビジウムは終わりに近い。トサミズキが花房をつけた。

こうして日向ぼっこしているうちに、花を数えきれなくなるのももう間近。

 

山火事おさまれ

山火事や上州名物空っ風

 

f:id:zukunashitosan0420:20210228074913j:plain

足利の山火事をハラハラしてニュースを見ていたが、1週間してようやく勢いが衰えて来たようだ。この時季の乾燥と強風で、たぶんハイカーの小さな火種が、106万㎡を越す山を燃やした。アメリカやオーストラリアを連想してひやひやしたが、日本は雨が多いので、これまでは大規模にはならなかったのだろう。

民謡には山火事が出てくる。「長者の山」という秋田のポピュラーな曲だ。ここではむしろ好意的にさえ感じられる。ワラビの豊作を期待している。

♪  山さ野火ついた 沢まで焼けた

  なぼか蕨コ ほけるやら    

(2段めは、「方言。どんなにか蕨が芽を出すことだろうの意、ホケルは野菜などの薹が立つようになること」「日本民謡集」岩波文庫

 

数年前に奈良の若草山の山焼きを見物に行ったことがあった。(写真)

儀式の後、火がつけられると枯れ山はあっというまに全山に火の手が回って、その熱気で観客はたじろいだ。火の粉が真っ暗な空に消えていく。これが延焼を起こさないように、消防などが細心の注意を払っていることは、見ていても理解できた。

焼き畑農業という言葉もあるが、山を燃やす、山が燃えることは、昔は自然なことで、想定内のことなのであって、それを前提に暮らしがあったのだろう。もちろん想定外に拡大したこともあっただろうが。

 

それにしても、飛び火して拡大する様は怖い。「炎上する」とか「火の粉がかかる」「火が付く」「足元に火が付く」などの言葉が、火事以外で使われるのも分かる気がする。

足下に火が付く、という言葉は、たんに火が身に迫るという意味だけでなく、山土は腐葉土で地面自体が燃えるから、自分の足の下の地面が燃えるという切羽詰まった感じがして、特に政治の世界、永田町などにはぴったりなのだろう。

駿河七観音---久能山越道と日本平

平澤寺から久能山へのルートを、友人と歩いてみた。日本平ハイキングコースである。駿河七観音には古代中世の信仰の道があるはず、という当て推量をネタにして、これまで静岡郊外の低山をいろいろ歩いたのだが、その一つのつもりである。

f:id:zukunashitosan0420:20210210092408j:plain

日本平山頂からの富士山)

 

久能山については「久能山誌」(静岡市発行)という立派な本がある。その中で、平澤寺と久能山について、

「平澤寺は、江戸時代の地誌「駿河記」によると、鎮守十二所権現が久能寺と同じ祭神を祀っており、中世には久能寺末寺の天台宗の寺院として存在していたものと思われる。本堂左側に久能山越道があったことから、久能寺の北西側入り口を守る存在であった。」

という記述があった。やはり信仰の道はあったのだ。当然かもしれないが・・・。

 

(ちなみに、後日また7観音の一つ「久能寺」をアップするつもりだが、「久能寺」は現在は無い。その場所は現在は、久能山東照宮であり、また寺は移され、現在の清水区にある「鉄舟寺」となっている。)

 

f:id:zukunashitosan0420:20210210092104j:plain

(途中の切通し)

 

ここにいう、久能山越道とはどういうルートをさすかは知らないが、現在の日本平へのハイキングコースに近いものだろうと思い、平澤寺に車を置いて、観音堂を通って歩き出した。一部ゴルフ場に開発されているので、そこを迂回するが、穏やかなのぼりを1時間ほどでホテルの脇を抜けて、日本平山頂に着いた。冬の日の中で気持ちよく汗をかいた。

 

日本平は、富士を望む名勝としてよく知られた名前だが、この山自体は有度山といい、山頂付近の平坦な部分が日本平である。そこから駿河湾側は、海によって削られた崩壊地であり急峻な崖となって崩れ落ちている。人が歩ける場所ではない。久能山はいわば崩れ残っているピークであり、そこに東照宮がある。崖をまたいでロープウェイが観光客を運んでいる。

友人の話では、昔は(1974年の七夕豪雨以前)この崖にも海側から昇ってくるルートがあり、子供たちも上ったという。ということは古代中世には、今より安全なルートがあったのかもしれない。多分それが久能山越道なのだろう、と勝手に想像する。

後日、「静岡県 登山・ハイキングコース147選」(昭和44年)という古いものが本箱の隅から出て来て、この中に「日本平」も紹介されているのを見つけた。よく見たら、海岸側から登るコースが紹介されていて、驚いた。ここにはほぼロープウェイの下を通り屏風谷を上る柳沢コース、蛇塚から登るコースがしっかりと書き込まれていた。多分今は通れないだろうが、確認したい気持ちもわいてくる。

 

f:id:zukunashitosan0420:20210210101911j:plain

 

 

f:id:zukunashitosan0420:20210210092635j:plain

(少し先東に有度山山頂306.9mがみえる 手前が日本平山頂)

日本平=)有度山の山頂は、地図によれば別の場所にある。で、その山頂を極めるべく、近くに見えるこんもりしたピークを目当てに幾分やぶも漕ぎながら、辿り着いて、やっと三角点を見つけ出した。5mほど先は崖の縁である。早々に退去した。ここにも徳富蘇峰の碑があると、あとで知ったのだが、気が付かなかった。