がんばれ!富士山女子大学駅伝

女子駅伝 海から富士へ駆けあがれ

年末恒例のイベント、富士山女子駅伝を見にいった。

自宅から会場の富士市まで約30キロなので、私としては大学駅伝を見ることができるいい機会だ。今日は快晴で富士山もよく見える。気温は観客日和でポカポカ。風もない。

私は富士川河口近くの第4中継所の近くにいたが、この辺りは人家が少なくて応援もまばらであるが、選手を見るにはちょうどいい。各大学の旗がはためき、数人ずつまとまって応援している風景が見られる。

 

第5区間は約10キロの最長距離で、各大学のエースが走る。先日マラソンオリンピックの候補を内定した鈴木優香、1万m日本歴代3位の拓殖大不破セイラなども走ったコースで、ここから世界へ飛び立つ選手もいる。今回はこの不破選手が走らないので、私としてはいくぶん興味がそがれてしまった。

第4中継所にはスタートしてから1時間ほどで、まず下馬評通り名城大学が入ってきた。第5区間を走るのは、3年生の谷本。ちょっと顔をしかめて私の前を走り過ぎていった。約1分半後大東文化大のサラ・ワンジルがこれまたきつい表情で追いかけていく。さてトップに追い付くかどうか。ついで日体大の山崎、大阪学院大の永長、大阪芸術大の北川など学生界のスター選手がつぎつぎに駆け抜けていった。

 

ボランティアで(かり出されて)沿道の観客指導に当たっているおじさんは、

「選手を見ていると、整備員なのに競技を見ていた、とクレームの投書が来るんですよ。だから道路に背を向けてる。嫌な世の中になりましたね」

などと話をしていると、隣に応援に来た女性とも会話になり、なんと名城大の選手の母親で、今回出場はなく控えなのだそうだ。

「それでも名城のメンバーだったら、普通の速さじゃあないですね」

「とてもとても、みんな世界的ですから。速くてねえ。娘はなかなか出場することができないですよ。」  熾烈な世界だ。

 

選手たちが走り去るのはあっという間だ。応援客は30分ほど待って、3分くらいで、はい終わり、となる。中継所では4区を走って区間賞をとった名城大の石松選手が明るい顔でインタビューを受けていた。そのあとは中継所の片付けで、皆さんバタバタしている。

イベントが終わると、わけもなく五輪真弓の「恋人よ」なんかが不意に口をついて出てきて、ああ今日は富士山がきれいだ、なんて思いながら駐車場に向かい帰宅した。まだ大掃除が残っている。

 

(12月30日の富士山 雪が少ない)

最近はユーチューブなどでランナーの練習風景がアップされているので、これまで市民があまり目にすることのなかった、毎日の練習の厳しさやプレッシャーなど知ることができる。いろいろなことを捨てて寮に缶詰めになり、今、走ることだけに人生のほとんどをかけている姿には敬服するしかない。

雑念ばかりであれこれに手を出してしまう自分には敵わないことだ。まあ自分らも大学受験勉強などは集中してやった記憶はあるが・・・。

駅伝に取り組む大勢の彼女たちには、ケガなく悔いなく競技人生を全うしてほしいものだ。

さむい散歩道ー2 

不思議だ

あなたに肉体があるとは     三木卓

 

詩人で作家の三木卓さんが去る11月に亡くなられた。静岡市にある静岡高校を卒業されており、最近まで地元の静岡新聞にもよく記事を寄せられていて県民にもなじみが深かった。しかし私はまったく三木さんの作品を読んだことはない。

だが、私はたった20文字ほどの言葉で、この人の名を忘れることができない奇妙な遭遇をした。それが冒頭のフレーズである。

(昭和45年頃 仙台市河原町付の広瀬川淵から遠く広瀬橋を見る:右側が長町)

20歳かそこらの私は、当時仙台で貧しい学生生活をしており大学は紛争の真っただ中で騒然としていた。私は何のつもりか一年次にクラス委員長などを引き受けて、民青や社青同、革丸そしていわゆるノンポリが混在するクラス会議を開いて、学費値上げ反対などのクラス決議などを討論したものだった。しかし次第にゲバルトにもうんざりし、生来の怠け癖も出て、大学にもいかず昼夜が逆転した自堕落な生活を送っていた。学業に目標が持てず、そして生きている意味やら、自分は本当に他人を愛せるのかなどと、今思えば過剰な自意識をもてあましてうろうろしていたのだろう。

そして自分の自意識過剰という罪悪を救ってくれるのは、「罪と罰」のソーニャのような女性だと思い込み、それを愛しく付き合っている女性に過剰に投影していた。それでもなおそれは愛ではないと、自分の原罪のような罪深さにひしがれ、無垢な精神を崇め自分を呪っていた。多くの若者にありがちなことである。

 

そんなある初冬のころ、アパート近くの広瀬橋を歩いていると、紙切れが足下にカサカサと飛んできた。おやッと思って拾い、みると鉛筆で字が書いてある。

 

不思議だ あなたに肉体があるとは

 

私はウッと息をのんだ。これは私が言葉にしようと悩んで求めていたまさにその言葉ではないか。気高く愛しい「他人」という存在を理解しようとしたときに私の前に現れる、まさしくその有様、ソーニャではないか。

私は紙切れを手にして、当惑した。まさか誰かが私の精神を知っていて、それで私が歩いてくるのを見計らってここに置いたのか。…そんなことはありえない。とするとある偶然が、私にこの言葉を授けてくれたに違いない、・・・それは神としか言いようがない何か偶然の恩恵なのだ。と思った。

その後いろいろ調べて、これは三木卓の詩の中の1,2行だと知った。そしてこれは、自分が広瀬橋という橋の神からいただいたもの、と理解した。

その後三木卓さんの小説や詩集を開くことはなかった。私にはこの一行だけでもう十分に思えたのだった。人生の出会いの一つである。

(平成25年 久しぶりに訪ねた広瀬橋は工事中だった 前方が河原町。紙切れはこの写真の歩道の中ほどに落ちていた記憶がある)

昔の思い出は多くがぼんやりとした箱の中に入ってしまったが、この散歩の奇跡的な遭遇は、まだ鮮明な記憶の一つである。訃報から思いだして、恥ずかしい気もするが、ついつい書いてしまった。

三木さんのご冥福をお祈りする。

さむい散歩道ー1

裸木やほらほらこれが僕の骨

この数日の木枯らしで葉が吹き飛んで、文字通り裸木になってしまった。「ほらほらこれが僕の骨」は、中原中也の詩のパクリ。

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、
しらじらと雨に洗われ、
ヌックと出た、骨の尖(さき)。以下略

詩のとおり、「ただいたずらにしらじらと」している。

 

ロゼットや這いつくばって寒に耐え

私は長年、ロゼットではなく、エジプトの例のロゼッタストーンロゼッタと間違えて覚えていた。
このロゼットはきれいだ。何のロゼットかはっきりしないが、この道端には夏はマツヨイグサが立つので、多分それかと思われる。暖冬だから幾分表情は緩んでいる、感じがする。

 

 

 

船上げ木遣りと童謡(文化祭の歌で思ったことなど)

(静岡 用宗漁港)

先日、地区の生涯学習センター(公民館)で文化祭が催され、私も参加して下手な民謡を唄った。私が唄ったのは、「静岡船上げ唄」(船上げ木遣り唄)というタイトルがつけられたもので、大声で音頭をとる木遣りである。お囃子は櫓をこぐ雰囲気である。備忘のために一番だけ記す。

♪ ホーラーエーエー 木遣りしゃ 二部でも ヤーアーエー

  (ソラ ヤットコセー ヨイヤラナー) 

 ホーラーエー 受け声頼むぞお ハ、ヨーイトナー

  (ソラ ハイララ ハイララ ヨイヨイ ヨーイトコ ヨーイトコナー)

 

調べてみると伊豆の伊東市で採譜された「船上げ唄」が資料(注1)にあり、それは私の唄ったものとほとんど同じであった。「船を櫓でこぐ時の唄で、音頭出しに合わせて、こぎ手が囃子詞をいれた。」との解説がある。さらにネットで類似の唄を探してみると、小田原城近くの松原神社の例祭の漁民たちによって歌われる漁民木遣りに酷似している。網を引き揚げる時の唄で珍しいもの、とも紹介されている。(注2)もともとは小田原のものだったのかもしれない、という思いが頭をかすめる。

師匠が言われるは、静岡でこの唄を唄う人は数えるほどしかいない、とのこと。静岡ではほとんど忘れられてしまった唄だけに、なくならぬよう、折に触れて唄っていきたい。

 

蘊蓄はともかく、舞台では意気込んで声を張り上げてみたものの、途中で歌詞がでてこなくて、ムニャムニャッ。最近、情けなくも物忘れが激しい。

 

当日、コーラスグループもたくさん歌を披露してくれたが、聞いていて、おやっと思った。

一つは、

♪ 「燈火(ともしび)ちかく 衣縫ふ(きぬぬう)母は 春の遊びの楽しさ語る」

で始まる「冬の夜」という唱歌。この中に、

「縄なふ父は 過ぎしいくさの手柄を語る」そして

「居並ぶ子供は ねむさを忘れて 耳を傾け こぶしを握る」

 

 これを聞いて、ああ父は参戦して戦い、それが誇りだったのだ、と改めて認識した。この歌は、1912年(明治45年)の「尋常小学唱歌」第三学年用に掲載された文部省唱歌で作詞・作曲者は不明であるとのこと。そうすると「戦の手柄」とは、日清戦争(1894~5年)、日露戦争(1904~5年)のいずれかのことになる。日本はよくもこの二つの戦争に勝ったものだ。戦争は殺し合いだが、現在と比べるとこの頃はまだまだヒューマンスケールで、言い方は悪いが健全な感じがする。個人が手柄を感じた時代だったのだ。

 

もう一つは、

 しずかなしずかな 里の秋  お背戸に 木の実の落ちる夜は 

で始まる、「里の秋」。作詞が斎藤信夫、作曲が海沼實だが、元々の詩は昭和16年に「星月夜」として4番まで書かれたものだったとのこと。その3番と4番は、

♪ 3番 きれいなきれいな 椰子の島  しっかり守って くださいと

    ああ とうさんの ご武運を  今夜もひとりで 祈ります

 4番 大きく大きく なったなら  兵隊さんだよ うれしいな

    ねえ かあさんよ 僕だって  かならずお国を まもります

 

この歌詞が次のように手直しされて、兵の帰還の歌となり戦後の人々の心をつかんだのだという。
3番 さよならさよなら 椰子の島  お船に揺られて 帰られる

    ああとうさんよ 御無事でと  今夜も かあさんと 祈ります

 

童謡、唱歌のうらに戦争があったことを教えてくれる。雑多な文になったが、上に書いたことは、私が知らなかっただけなのかもしれない。

いまは毎日テレビでガザ、ウクライナ、そしてミャンマーの戦争の映像が大写しされる。童謡はとても生まれてこない。現在の子供たちは、これを見ながら一体どういう人間に成長するのだろう。

 

(注1)「静岡県こころのうた」 静岡新聞社刊 静岡県教育委員会編・著 

(注2)http://jinkoenig.o.oo7.jp/Source/matsubara/KiyariSong.htm

 

 

帰り花・・・子規と良寛と雑感

蜜すこし蝿を寄せたる帰り花

鉢に植えたヒメユウスゲが咲いた。なんと12月、大雪のこの時季にである。目に飛び込むような鮮やかなレモンイエローの花弁。花茎がほとんど伸びていないため、花は地面から突然咲き出している。転がっているように見える。葉は余りない。

これには驚いた。なんという異常さ。少し前に10月にカワヅザクラが満開になって驚いたが、またまた、である。花はもう翌日には萎れて情けなく小さく縮んでしまった。

 

「帰り花」という俳句の季語があるが、見ていてもそういう感慨がわいてこない。最近は「狂い咲き」だと感じてしまう。

花が時期を外れて咲くのはよくあること。詩人の心を動かすのだろう、芭蕉も蕪村も一茶も、句を残している。ちなみに「帰り花」を子規の俳句を松山市立の「子規記念博物館」のサイトからデータ検索してみると、17句ヒットする。

 

では、と別の季語の「狂い咲き」「狂い花」「二度咲き」を検索してみたが、出てこない。もしかしてこうした季語は新しいのかもしれない。蕪村や一茶にも見当たらないし、子規にも見当たらないということは、現代生まれの季語かもしれない。もちろんちょっと調べた範囲だけの見当だが・・・。

 

子規の句を検索するとこんな句が目にとまった。

復の卦や昔の妻の返り花   明治30年

「復の卦」は一陽来復、次第に春の暖かさが戻ってくるという吉の卦の意味だと、理解される。ということは、依然別れてしまった女との縁が戻り帰ってきそうな気配がする、という占いが出た、ということなのか。中年も過ぎてささやかに静かに花の咲くように。(地雷復の卦というのがあるそうで、意味は一陽来復に同じようだ。)

 

帰り花比丘の比丘尼をとふ日哉   明治26年

お互いに出家した者同士。世間の欲を離れて浄土を願うもの、とは言えそこは生身の人間。淡い思いを抱きながら、心の通う人のもとを訪ね会話を楽しむ冬の一日。あっという間に日は翳り、早々と帰る時間が迫ってくる。

 (国上山の良寛像)

この句は良寛と貞心尼の姿が思い浮かぶ。

私はほとんど知識はないのだが、手元の「良寛物語」(大山澄太)から拾うと。

貞心尼は30歳頃。長岡在の小さい堂守をしていた。そして良寛という歌も書も優れた奇僧のことを噂で知り、思い立って良寛を訪ねる。良寛は厳しい五合庵での生活に耐えられず、山を下りて長岡市島崎の信者の家に寄寓していた。時に70歳。二人は一度の面会ですっかり意気投合し貞心尼はしげく良寛を訪れるようになり歌を交わし合ったという。それは相聞歌そのものだ。

秋萩の花咲く頃を待ち遠み夏草わけてまたも来にけり  貞心尼

返し

秋萩の咲くを遠みと夏草の露をわけわけとひし君はも   良寛

 

良寛さんは74で亡くなり、貞心尼は二人の歌集「蓮の露」を残した、とのことだ。私は歌集を読んだことはない。晩年の実らぬ短く咲いた恋心、帰り花の季語にマッチしやしないか?

子規の句では訪ねるのが比丘の方なので、少し事情は違うような気もするが・・・。若い子規がどんな心情でよんだのか、聞くすべもない。

白山、立山、富士山 = 三禅定とは

木枯しや吹き上げて消ゆ富士の嶺

富士山が世界遺産に登録されて10年。これにちなんだ「三霊山学術フォーラム」という静岡県主催のイベントがあり、先日聞きに行った。

三霊山とは、立山、白山、富士山をいう。ご存じの「風の盆」の唄、越中おわら節の後囃子に、次のよく知られた囃しがある。

 

♪ 越中立山 加賀では白山 駿河の富士山三国一だよ

 

私もこの節を胡弓に合わせて唄いたいのだが、なにせ難しく、またキーが高くてだめ。低い声ではあの祭りの雰囲気が出ない。

 

イベントの発端は、静岡県知事が元総理の森喜朗氏に会った折に、三霊山をテーマに地域が連携して発信するアイデアを森氏から提案されたことにあり、各県知事に呼びかけてフォーラムを立ち上げたものだという。発想は面白い。

著名な大学教授が3人出演したが、残念ながら、フォーラムは消化不良な内容でがっかりした。

「禅定」という言葉がある。

辞書では「心を一点に集中し、雑念を退け、絶対の境地に達するための瞑想。」の意味だという。けれど「富士山、白山、立山などの高い山に登って、信者が修行すること。」(精選版 日本国語大辞典)という意味もあり、しばしば出てくる言葉で、登拝することとかそのルートとかなどに使われているようだ。

だがネットで見ていると、かつて、この三山をめぐる「三禅定」という修行というか登拝があったようだ。私は今回初めて知った。三山はいずれも民間信仰の篤い山であり、江戸時代には盛んに登られたが、この三山を個別ではなく連続して登拝するということのようだ。

加藤基樹氏の「「三禅定」考」というネットでの資料を読むと、江戸時代に主に尾張三河地域の人々が行ったもので、今日では完全に失われた習俗、とのこと。しかし池大雅も1760年に行っているという。三禅定という習俗は、まだ研究が進んでおらず資料の掘り起こしの段階であるという。

ちなみにこのフォーラムでは、三禅定については全く触れることがなかった。

 

思い起こすのは、「トランスジャパンアルプスレース」と呼ばれる山岳耐久レースだ。富山県魚津市から太平洋側の静岡県静岡市まで約415kmを北アルプス中央アルプス南アルプスの山々を縦断するという途方もなく厳しいレースだが、三禅定もある種こうした長距離トレイルランに似たものかもしれない。

三禅定のロングトレイルランをやったらどうか、などと無責任なことは思わないが、こうした庶民の長旅が許されていた歴史がもっと掘り返されたら、面白いものだ。そうしたテーマにも、このフォーラムが取り組んでくれたら面白そうだ。

直感だが、主に三河尾張の人々がグループを組んで行っていた、ということの理由だが、この地域は伊勢に近いので、お伊勢参りでは非日常や旅を味わえない。だからより遠方のお山に向かうことで日常性を飛び出そうとしたのではないだろうか。今後資料があったら、いろいろ見ていくことにしたい。

斯く言う私は、富士山こそ登ったが、立山も白山も登頂していない。一の宮巡りで越中芦峅寺雄山神社、加賀の白山ヒメ神社には詣でたことがある。それぞれ山頂に奥の院があるので、いずれはと思いつつ年月ばかりが流れ去る。

 

草紅葉いろいろ

土もまた滅びを詠う草紅葉

 

これはタコノアシ(タコノアシ科)

まるでゆでだこの足の吸盤に見えるところが面白い。素晴らしい赤。沼地や休耕田などに生えていて、いいアクセントになる。遠景は富士山。

 

これはタウコギ(キク科)
たんぼにしばしば見られる草で、ちょっと見、アメリカセンダン草に似ている。こんなに群生しているとところは近くにはあまりない。やぶやぶだが、どうしていい色。

 

これは多分、イヌタデ?(タデ科

こいつはなかなか微妙な紅葉をしてくれて、辛みはないがこんなところで風景に味つけをしてくれていた。捨てがたい。

 

これはコブナグサ(イネ科)

古くから黄色染料として使われてきたという。「黄八丈」の鮮やかな黄色はコブナグサをせんじた汁で染めたもの。

 

静岡は、しかしながら、本当に温暖なので、草紅葉の風景の一方、次のような青々とした色も見られる。季節の変化が明瞭ではない。これをよしとするかどうか。

写真では、刈り取られたオモダカが今頃また葉を伸ばしている。