長野水害ハザードマップ

泥の湖にまた雨来るや秋出水

 

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 (上に見える表示が5mの高さ:長野市

台風19号ハギビスは凶暴だった。

列島に近づく前から激しい雨を降らせ、伊豆半島に上陸し関東を抜けていった。80人を超す死者行方不明者を出し、日本の半分を水浸しにし、東海から関東、東北まで夥しい数の河川を氾濫させた。箱根では二日で1,000㎜という恐ろしい大雨が降った。

台風が去った後、続々と実態が明らかになってきている。全貌がつかめないほどの被害だった。私の郷里の長野県飯山市も、支流が溢水して町が冠水し弟の家が浸かった。千曲川が決壊した長野市穂保の決壊現場近くに、妹の工場が移ったばかりだったが、折悪しくそこも泥に浸かった。みな難儀を強いられている。

 

妹によれば、新幹線が浸かっていた長野市長沼付近の電柱には、想定浸水が5mだという表示があり、それは最大の場合12mだとも書いてあり、それには気づいていた。妹が言うには

「ここら辺の人たち、水は入らないものだとずっと思っていたって。」

「5mは、あくまで「入った場合」のこと。」

・・・それが浸水してしまった。想定の5mに達したら2階に避難しても危ないだろう。そこにまでならなくてよかった。それでもあの光景、あの泥の量だ。

 

ハザードマップが予想していた通りです!」

と識者や行政は言っている。私もあまり耳を傾けなかったが、今回ばかりは少し考えさせられた。

 

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 (最大12mの浸水と表記されている:長野市

私の家は土砂災害危険地域に指定されていて、市から配られたハザードマップをみると赤く染められている。

静岡市は、1974年7月7日午前9時から8日午前9時までの24時間連続雨量が508mmを記録し、大災害が起こった。その時に、我が家の脇の水路(沢)が土砂崩れを起こし、付近数軒が被災した。これが「七夕豪雨」大災害の記憶として語り継がれている。

ところが、今回の雨はその豪雨に匹敵もしくは上回る量が降っているところがたくさんある。もしこの地にあの雨雲が来ていたら、40年前の災害がまた起こっても不思議ではなかったのだ。しかも最近は、こうした信じられない大雨が増えてきている。ハザードマップを少し本気で見なおさなければならない。

 

日本は昔から洪水大国である。静岡市の登呂遺跡は、1世紀ごろの遺跡だが、やはり大洪水で埋没し人が住まなくなったといわれている。その住居を見ると、コメなどの作物貯蔵には高床式の倉庫を作っていた。

また住居は竪穴式のようにみえるが、実は竪穴系平地式住居だといわれる。低地では、「土間が湿潤になりやすい欠点がある。そこで,低地に設ける住居として,半地下式にするのではなく,地表を床面としてその床の周囲に土堤をめぐらせて水の流入を防ぎ,そこへ屋根を伏せた平地住居とも呼ばれるもの」だという。(改訂新版・世界大百科事典)

日本人は古代から水を利用し、また水に悩まされていたため、洪水に対処する建築や土地選択や備えの知恵が生まれ、いつ頃までかそれはわれわれの常識の中に生きていた。それが徐々に失われていたのだろう。ハザードマップを見ても、いわゆる「正常性バイアス」が強く働いて我が身のこととは受け止めない人が多い。私もそうだが。

 

三陸津波の町は、海岸の平地を避けて山に新たに居住地を作っている。安全のために平地を捨てたのだ。洪水も同様に、家屋が水没するような浸水が予想される地域は定住しないという発想も必要かもしれない。東京などは実現しようがないと思えるが。

もしくは誰か水に浮く住宅を作ってくれないだろうか。

寄生虫 ハリガネムシ

針金を産んで蟷螂鎌を垂れ

 

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(カマキリから出てきたハリガネムシ

 

庭先で何かが動いていたので、よく見たらハリガネムシがのたうっていた。気持ち良いものではない。その脇に呆然としたようなカマキリ。こんなのを見るのは、子どもの時以来だ。

ハリガネムシは黒い細長い虫で、写真のも20センチくらいはある。カマキリに寄生して、その体内で成虫になり、やがて尻から出てくる。彼らは繁殖のため水の中に戻る必要があり、恐ろしいことにカマキリの行動をコントロールして水に溺れさせ、自分は水中に出ていくのだという。本当かどうか調べたことはない。

かつては田舎の野原で見かけることが時折あって、子供らがワイワイと見ていたものだった。 

 

カマキリはもうあまり動かない。それにしてもあんな長いものがよくカマキリの体に収まっていたものだ。彼女に感情があるなら、驚きとやりきれない思いで一杯だろう。

 

寄生虫といえば、戦後は回虫などは驚くものではなかった。検便も今では大腸癌などの検査が多いが、昔は寄生虫の検査だった。尾籠な話で恐縮だが、私も検査に引っかかったことがあって虫下しを飲んだことがある。そしたら何かが肛門から出ているので、便所に行ってそれを引っ張ると、ずるっと抜けた。それが回虫だったと思うが、もちろん見てチェックしなかったから正体はわからない。

 

動物界にも植物界にも寄生する生き物はたくさんいる。人間も家畜に寄生している恐ろしい寄生生物なのだろう。社会の貧富の差は、人間が人間に寄生しているということかもしれない。公衆衛生上もよくないことだ。

 

ヤブマメとアイヌ文化

藪豆の組み敷いて芒開かざる

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やぶやぶしたところを注意してみると、背の高い草や木に絡んでいる。スラっとした姿で、ちょっと上品な感じがする。花の紫色の印象かもしれない。

図鑑では、この花は「形の異なる3種類の花をつける写真のような開放花と、花が開かないまま種子をつくる地上の閉鎖花、それと地下にできる5ミリほどの閉鎖花」で、地下の花が一番大きな実をつけると書いている。*1

落花生を連想するが、あれは確か地上で花が咲いてから先端が地に潜るのではなかったか。

 

アイヌ文化を守る運動を続けられ参議院議員にもなられた萱野茂さんの本に「アイヌ歳時記」という小本があって、そこに「土豆」が出てくる。これはヤブマメのことで、アイヌはこれをヌミノカンとかアハとか呼んだという。萱野さんは晩秋や早春に蔓の根元を掘りその粒を集めたが、せいぜい3合から5合採れればいいほうで食料としてあてにするほどではなかった。だが味は栗のようにおいしかったと記している。*2

 

各地でそんな習慣があったのかと思い、信州の植物民俗に詳しい宇都宮貞子さんの本を探したが、ヤブマメの地下の実を食べる話は出てこなかった。東北ではどうなのか知らないが、縄文人なら充分考えられる話ではある。

こういうことには、自分も挑戦してみたくなる性分なのだが、最近気力が衰えどうもその気にならない。

 

少し話がそれるが、

この9月半ばころの新聞に、紋別アイヌの人が道庁の許可なく川で鮭を獲り警察の事情聴取を受けたというニュースがのっていた。この方はアイヌの祭りのために鮭をとったのだが、以前から先住民族の権利として許可なく鮭をとることを認めてほしいと国や道に訴えていた。それは国連の先住民族権利宣言などで国際的に認められている権利だと主張。逮捕を覚悟の実力行使だったようだ。しかし道は密漁と区別できないという理由で許可制をくずさず、両者の思惑が衝突した。

 

実は、萱野さんのこの本にも同じ事件が載っている。

鮭はアイヌの主食であったが、明治になって和人が北海道に入り込み、一方的にサケ漁を禁止した。昭和6、7年頃のこと、萱野さんの家に巡査が来て彼の父親を連行した。萱野さんは泣いて追いかけ、村人も集まって泣いた。

「毎晩こっそり獲ってきて子どもたちに口止めしながら食べさせていたサケは、日本人が作った法律によって、獲ってはならないさかなになっていた」のだ。連行されたあと祖母はアイヌ語で、「和人が作ったものがサケではあるまいに、私の息子が少し獲ってきて、神々と子どもに少し食べさせたことで罰を受け、和人がたくさん獲ったことは罰せられないのかい」という意味のことを言って泣いたと、書かれている。

そして萱野氏は、自分は各国の先住民と交流してきたが、「侵略によって主食を奪われた民族は聞いたことがない」と訴えている。

昭和6年といえば約90年前。事態は現在もあまり変わっていないようだ。。

 

ついつい話が逸れたが、イルカ漁や捕鯨では日本が世界から非難を受けて、日本人の伝統的な食文化だと反論しても声が届かず、ついに国際捕鯨委員会を脱退したことを思い出す。

 

*1 永田芳男 「秋の野草」山渓フィールドブックス3

*2 萱野茂 「アイヌ歳時記」 平凡社新書

子規の命日 獺祭忌

老化など屁の河童なり獺祭忌

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(子規が写生した草花)草花を画く日課や秋に入る 子規

 

9月19日は、子規の命日だった。亡くなって117年になる。

子規は獺祭書屋主人というペンネームを使ったことがある。俳句で、子規の命日が獺祭忌ともいわれる所以である。 

獺(だつ)とは、カワウソのこと。日本では絶滅してしまったが、ウソとかオソとか呼ばれ各地に生息していた。カッパの正体はカワウソだと説く人もいるようだ。

カワウソは獲った魚を並べることから、それを祭りの供物になぞらえて、獺祭という面白い言葉を中国人がつくった。最近は山口県の日本酒名となって、一気に周知度が上がったことは誰もが知るところ。

子規は本をずらっと並べている様子を、そう茶化したのだろう。

 

子規は35歳直前で亡くなった。体はボロボロで、「肺は左右ともに大半空洞となっていて、医師の目にも生存自体が奇蹟とされていた」という。*1

その中で、死の直前まで句をひねり、俯いたまま筆を使い好奇心にあふれた原稿を書き、そして草や果物の絵を描いた。モルヒネを使いながらである。驚くべきは、おのれの不幸に泣き言をいう記事がほとんど見当たらないことである。

この9月、子規を偲ばんと改めて子規句集や随筆を手にすると、その壮絶で、しかも楽天的で前向きな生きざまは、やはり胸を打つ。これが35歳の人間だとはとても思えない、成熟した達観した男の姿が見えてくる。何か腹の底が座っている。命が惜しいのではなく名が惜しい、のだろうか。武士というのはこういうものだったのか、などとも思わせる。

 

子規は「野心」とよく言っていたという。立身出世の意味もあろうが、とことん道を究めるという意味もあっただろう。

この季節になると、「野心が足りない」と子規に怒られる気がしてくる。私などは子供のまま歳だけは子規の倍も生きてしまった。そして毎日、首が痛い膝が痛い、あそこが痛い、ここがと自分を甘やかしている。

 

*1 「仰臥漫録」岩波文庫の解説

秋晴れの富士山宝永火口

天高し山巓遠し道嶮し

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(宝永火口の縁から山頂を仰ぐ)

先日友人らと4人で富士山ハイクにでかけ、絶好の秋晴れに恵まれた。

ところが、この日は秋の3連休、しかも夏山シーズンの入山規制が終わり、マイカーで新五合目まで入れるとあって、予想以上の混雑だった。私たちも新五合目駐車場まで行けずに、その下600mほどの路肩に空き見つけてやっと駐車したほどだった。

 

今回のコースは、新五合目から出て6合まで登り、降って宝永火口、御殿庭、がらん沢、そして高鉢駐車場に降りて来るというもの。下りだから楽勝だなどと嘯いていたが、きつい長い降りでガタガタになった。

 

ともあれ、快晴の青空に見える山頂付近、8合目の小屋の反射、赤銅色の微妙な色合いの富士山の肌。そして目を転じれば、雲の切れ間から見える富士市沼津市裾野市などの街並み、遠くに駿河湾伊豆半島。正に神の視線といえる。

しかし何といっても素晴らしいのは、宝永火口のスケールの大きさと赤さびた山肌。日常にはない広闊な景観で、この中に入ると距離感やら時間の感覚が、すこし異常をきたすようだ。

足元には、紅葉し始めたオンタデ、少し盛りを過ぎた富士アザミ、そして林の中にはコケモモが熟れ始めていた。

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(宝永第1火口を見る、ピークが宝永山:1707年に噴火)

友人のつけた行程メモを備忘で掲載する。

09:00  高鉢駐車場集合

09:35  新5合目まで600m付近の路肩に駐車 歩き出す

10:00  新5合目発 

10:25  6合目

10:40  宝永第一火口の縁

10:50  宝永第一火口

11:10  宝永第一火口の縁に戻る

11:30  宝永第二火口の縁で昼食

12:00  宝永第二火口縁発

12:50  御殿庭下

13:50  ガラン沢

15:10  高鉢駐車場

歩行時間  5時間35分 

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(宝永第2火口の縁を降っていく:手前の数人が友人たち)

下山途中の御殿庭中あたりに、村山修験の修業場跡の碑があった。数年前に、村山浅間神社から登る古道が調査、復活されたというニュースがあったが、その道は現在の富士市富士宮市の境あたりを通っていたようだ。両市境はこの古道と関係があるのかもしれない。我々が歩いた御殿庭コースよりも少し西側に当たる。

だが、ほぼ直登するルートなので、これはきつそうだ。一般の人が物見遊山で来ても、跳ね返されたのではないか。

「き・らめく・・・展 2019」を見て

美術展わが絵恥ずかし部屋の隅 

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八月の末、新聞で目にした「き・らめく・・・展 2019」を静岡県立美術館に見にいった。名前も知られていないマイナーな美術展なので、同館で同時開催されていた熊谷守一展に比べ客足には当然雲泥の差があった。

 

ちょっと変わった美術展だった。

油絵、イラスト、水彩画、人形、陶芸、額からはみ出している立体絵は紙粘土。様々なジャンルの作品が5,60点展示されている。説明員は一人の姿が見えるだけだ。

その方に伺うと、数年前に長野県で画家や写真家、工芸家たち有志が集まって団体を結成し、自ら発表の場を設けようと松本、金沢、富山などで年数回展覧会を自主運営しているのだという。銀座の画廊にも呼ばれるようになったというから技量は確かだ。経費は会員の年会費から捻出。展示も自分たちで行うという。

 

静岡県立美術館を、とてもいい施設だと褒めてくれて、

「美術館も自分たちで選びます。有名でも使いにくい美術館も多いですよ。ここは照明もLEDではないから自然でいい。なるべく外光を入れたいと思ってここの壁も外してもらいましたよ。」

確かにいつもの壁がなくて、庭が見えている。

さらに伺うと、今回は20数人の会員の中から5人の作品を展示しているとのこと。まだ絵画を始めて3年の人も出展しているというので、よく見ると素人っぽさが残る絵がある。

「会員の上手下手は問題にはしないんです。ただその時点で出来る精いっぱいの作品に仕上げること、手を抜かないことを大事にしているんです」。

 

会員はプロ、セミプロの方が多いようだが、営業意識よりも創造・発表の喜びを伝えたいという意識が強いように感じられた。美術への取り組み意欲が等身大に伝わってくるように感じられて、私も会場を辞すときに、下手な絵だけれどもう少し頑張ろう!という気持ちになった。心温まる美術展だった。

 

展覧会というと、大きな美術館は集客の必要もあり、どうしてもメジャーな泰西名画や大〇〇展といったものになりがちだ。作品自体は素晴らしいのだろうが、私は最近、そうした人気の展示会に行って、行列を作って「鑑賞」する気持ちにならなくなった。

逆に趣味のグループの展覧会は、各地の公民館などで目白押しだが、もう私は見てもあまり刺激を受けなくなった。この二つタイプを併せ持つものはないのだろうか。素晴らしい美術品と独占的に相対することができ、しかも身近で気軽に行けるという。探して出かけろ、と言われそうだが…。

 

そういう意味では、この「き・らめく展」は、創作と発表の刺激を直に感じ取れる展覧会だったという気がしている。

そのあと2週間ほどして、ご丁寧にもお礼状が届いた。

秋の花野のセチメンタル

めぐりあう不思議哀しき花野かな

 

まだ日盛りの堤防は体にきついが、それでも時折の涼風に慰められながら、少し歩いてみた。暑い暑いと怠けているうちに、季節は確実に秋を深めているようだ。花たちはすっかり秋の風情である。見渡すばかり緑の草が、ことごとく草花だったのだと、驚かされる。

まさに、

緑なるひとつ草とぞ 春は見し 秋は いろいろの花にぞありける

 (古今集 秋上 読み人知らず)

 

さて堤防の花をふたみつ。

 

吾亦紅 (バラ科

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 吾亦紅さし出て花のつもりかな 一茶

 

カワラマツバ (アカネ科)

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葉が松葉に似ている。

 

アキカラマツ (キンポウゲ科

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カラマツソウは夏の図鑑で花期は7-9月とある。アキカラマツは秋の図鑑で花期はやはり7-9月とある。この時期夏と秋は区分しがたい。秋の花といっても晩夏が多い感じがする。

 

ツリガネニンジン (キキョウ科)

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信州では「トトキ」と呼んで春の山菜の一つ、と宇都宮貞子さんが1972年に出版した「草木おぼえがき」に記しているが、私は食べたことがない。その後改定した「秋の草木」では、次のようにおしゃれな文章が追加してあった。

「薄い藍紫の小鈴が沢山下がって愛らしい。…このチャイムの中子は長いのだ。お寺の軒に下がる風鐸と同じで、文字通り風で鳴らすためなのだ。ただ風の神アイオロスが奏でるこの音は、人間の耳には音として捉えられぬヘルツだから、そばでルルルルルとかぼそくひびくカンタンの声が、それではないかと思ってしまうのだ。」*1

 

*1 「秋の草木」宇都宮貞子 新潮文庫